言葉を巡って思うこと

最近の大きな出来事はスコットランド独立問題だった。その底流に言語問題があるようだ。スコットランドにはゲール語という民族語がある。ゲーリックとも言う。英語とは全く異なる言語で、スコットランドでは英語とゲール語の2種類の言葉が話されている。日本では沖縄で同じような事情があるが、沖縄の場合は明治維新後いわゆる「琉球処分」の結果日本語(標準語)の使用が強制され、沖縄語を使った場合は首から「方言札」を下げさせられ見せしめにされた。

2009年2月19日にユネスコが発表した調査結果によると、世界で約2500の言語が消滅の危機にあるとし、日本の南西諸島における諸語もその対象となった。この中で沖縄方言は、国頭方言宮古方言奄美方言八重山方言与那国方言とともに、それぞれ独立した1個の言語「沖縄語」とみなされた。ユネスコの担当者は、「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」という認識だ。

方言はその地で、共同体の中で数万年にわたって生活の中で使われてきた言葉であり、共同体、さらには部族、民族の紐帯の役割を果たしてきた。

世界の諸国はグローバル化の高波に洗われている。波の出所は恐らくアメリカだろう。高波は民主主義であり、マネー資本主義であり、世界を一つの貿易圏にする世界市場論となって押し寄せてきている。しかし、グローバル化の高波に抗うようにローカリズムの波も盛り上がってきている。私達が生きている場はグローバル化の波とローカリズムの波がぶつかり合い、砕けるところなのかもしれない。そして最終的には民族毎に細かく分かれたモザイク模様的世界になるのかもしれない。ユーゴスラビア、チェコスロバキアは民族毎に分裂独立の道を選んだ。世界は多様化を最終的な目標にしていると考えると、私達はローカリズムの中に等価的なものを見つけ出し、異質のものを尊重し合う、今まで立ったことのない場所に立たなければならないはずだ。グローバル化は経済的要素を濃厚に持ち、ローカリズムは文化的・生活的要素を強く持つ。これが21世紀に生きる私達に与えられた課題なのかもしれない。