自給自足の思想
市民農園で野菜づくりをしている。できるだけ自分達で日々食べる野菜は自給したいと思っている。その結果、多品種少量栽培となる。今晩の夕食は秋刀魚のソテーとピーマンとナスのソテー。スライスにしたカボチャを蒸したものと、モロヘイヤ。それにトマトソースのパスタ。マッシュポテトに玉ねぎを混ぜたもの。この中で自給している野菜はピーマンとナス、それにモロヘイヤとトマト、それにジャガイモと玉ねぎだ。自分で栽培していると旬の野菜を食べる習慣が段々身についてくる。一年中ナスを食べるとかニンジンを食べるということはない。
さて自給という言葉は理解しやすいのだが、自足という言葉はどうだろうか。自足とは自分が必要としているものが足りている、満たされている、ということだろう。言い換えれば自給自足とは自分の中で供給と需要のバランスが取れている、ということになる。現在私と家内で野菜栽培をしている市民農園の場合、このバランスが崩れる時がある。例えば、現在のような端境期では需要に対して供給は限られている。一方夏野菜が沢山収穫できる時は私と家内の2人では食べ切れず、おすそわけさせて頂くとか、毎食のようにゴーヤのスムージーを飲む、ということになる。また食べきれないほど収穫出来た時にはジャムとかソースにして保存する。ブラックベリージャムとかトマトソースなどだ。自給自足は供給と需要と言う関係で見ることもできるが、生産者と消費者という関係でも見ることができるだろう。それが一人の人間の中で両立している、というのが面白い。この2種類の関係を基礎にして生まれてくる思想について、もう少し考えてみたい。それは「知足者富」という老子の言葉に触発されて、私の中の探究心が動き始めているからだ。普通この言葉は貧しさを愚痴らず、我慢する精神と捉えられてきた。しかし、自給自足という一体の言葉の中で「自足」を考えると違った面が見えてきそうだ。つまり「自足」を<自ずから足りる>と理解するとそこには融通無碍な、自立した、自分が足りているかどうかの基準は自分で決める、という自由さと自己責任のような響きを感じる。
ピーマンのソテーを食べながら、私は自給自足の思想も一緒に食べているのではないか、という気持ちに一瞬襲われた。