臨床宗教家の役割と聞くということ
臨床宗教家として活動している僧侶、牧師、神主などの宗教家がいる。彼らの活動はカフェ・デ・モンクとしても知られている。臨床宗教家は自分の宗教の教義を相手に「押し付けるのではなく、あくまで中立的な立場に立って」死を目前にした人、あるいは家族を失った人の声に耳を傾ける。私が臨床宗教家の活動を知ったのは、東日本大震災後の彼らの活動を取り上げたNHKテレビだった。宗教家は得てして教義に立って模範解答をしがちだ。「亡くなった子供の夢をよく見る。子供は成仏していないのではないか」と母親が聞いた時、どう答えるか。これを2者択一的な問いと受けとめるのではなく、話を聞きながら、一緒にもっと深い所まで降りて行き、本人自身が問いに対する答を見つける手伝いをする、のが良いのではないか、とカフェ・デ・モンクのリーダーである金田諦応師は言う。私が思うには、問いを発した者は自分では背負い切れない悲しみ、不条理の中に、独り立っている。「生きることは死ぬより辛い」。まずその姿を誰かに認めてほしい、視野に入れてほしい、と思うのではないだろうか。そして話すことで、聞いてもらうことで、自分一人では降りていくことの出来ない深淵に降りていく。宗教者は深淵に降りていく覚悟を持っている。しかし一緒に深淵に降りていってくれる聞き手は滅多にいない、と言っても良いだろう。私は最近思うのだが、人は自分のことも、自分に起こった出来事についても「良く分かってはいない」のだ。話すことによって、聞いてもらうことによって、少しづつ理解が広がり、真実が見えてくる。聞くことの力は恐らく私たちが普段理解している以上のものだろう。読むこと、話すこと、聞くことの3つの中で一番大事で、自分に欠けているのは聞くことだと思わされている。