真夜中の涼しい風に吹かれながら
今日は2箇所の屋上菜園で炎天下で作業をした。千駄ヶ谷では1人、北千住では女性スタッフとの作業。帰宅は午後6時。いささか疲れた。気分的にはまだ50代?のつもりでいるが、というよりあまり年齢を意識していないが、身体はそうはいかない。夕食後、木のフローリングの冷たさが気持ちよくて居間に横になり、テレビを見ているうちにウトウト寝てしまった。家内に起こされ風呂に入る。風呂から上がって冷たい水を飲みながら2階の書斎の窓を開けて、パソコンで今日の事務処理。終って空を見上げると雲に包まれ僅かにオレンジ色の光芒を滲ませている月がアット言う間に雲の中に没していった。さて昨日から一日一日の締め括りをつけて終えることにしたので、事務処理をし、片づけをして、日記を書き、ブログを書いた。涼しいかすかな夜風が胸に向って流れてくる。ふいに長田弘の詩を思い出した。「こんな静かな夜」
本棚から取り出して読む。以前読んだ時、私は次ぎのような一節に目を留め、思い巡らしたことがあった。
「いつのときもあなたを苦しめていたのは、何かが欠けているという意識だった」
私は内心で小さく叫んだ。「そうだ、そうだったんだ」。
私の場合、欠けているものが何か、以前は分らなかったが、それが最近おぼろげながら見えてきた。まだすべてが、全体像が見えているわけではない。それでも苦しみから段々解放されつつある。
長田はこの詩の最後のところでこう言う。
「わたしたちは、何をすべきか、でなく何をすべきでないのか、考えるべきだ」
人生はおどろくほど短い。できることは限られている。何をすべきでないかのか、分ったら本当に何をすべきか、分ってくるのではないか。それは多分一つ。
私もこんな静かな微風が吹く深夜、長田と同じように、ビル・エヴァンスの「ConversationWith Myself」聴く。死者となった長田のことを偲びながら。そして自分の心と話しながら。