心配事を弄ばない
毎日生活し、仕事をしているといろいろなことが起る。心配症の人のために最近では「心配事は99%起らない」などという本も出ている。人によっては必ず起る1%に注目して心配するのを止められない人もいるかもしれない。
最近気のおけない友人Kさんとカフェで雑談していた時、心配事をどうするか、ということが話題になった。
私「ぼくはどちらかというと心配症だ。家内はぼくのことを楽天家というけど本当は心配症だと思う。それは自分のことだから本当のことが分る」
K「ぼくもそうだ。いやそうだった。何かあった時、心配することは必要だ。心配とは「心を配る」ことだから。しかし心配しすぎてはいけない。事実としての出来事とそれをどう思うか、というのは別のことではないかと思う」
私「別のことというのは?」
K「というのは心配事が発生した場合、当然感情的に反応するよね。まず最悪のことを考える。そして一方でそれを打ち消すため最善のことを考える。そしてその間で揺れ動くということになる。あれこれ考えているうちに振幅の幅が狭くなり、妥当な思いに落ち着く」
私「しかし、そこで本当に落ち着くわけではない?」
K「そうなんだ。また揺れ動く。人間は恐らく心配事に対する耐性を持つことはできない存在なんだろうと思う」
私「どうしたらいいのかな」
K「少し理屈っぽい話になるが、ぼくらは心配事の事実よりもそれを心配している自分の感情に囚われるという傾向がある。ある意味で反応しすぎている。ぼくは最近それに『心配事を弄んでいる』と名付けたんだ」
私「弄ぶか・・・」
K「心配事が与えられるのは自分が直面している現実をもう一度見つめ直す機会と考えたらどうだろうか。更には真実を。どんな場合でも真実は本当の解決を、もっと言うと、覚悟と平安を与えてくれる」
私「実は今あることを心配している。でも今K君の話を聞いて気がついたんだ。本当の解決という見方で心配事を見直してみるよ」
K「心配事を乗り越えるためには意志の力が必要だということも付け加えておきたいね。感情の乱れを整えるのは意志だから」
私「意志が正しい努力を産みだす・・・と続くのかい?」
K「そういうことだね。弄んでいる間は何もしていない」
その後、私とK君はミッチ・アルボムの「モリー先生との火曜日」のモリー先生のあの忘れ難い言葉について話合った。
「つくり出した愛はすべてそのまま残っている。思い出はすべてそのまま残っている。死んでも生きつづけるんだーこの世にいる間にふれた人、育てた人すべての心の中に」
「死で人生は終る、つながりは終らない」
死は最大の心配事だ。モリー先生はその心配事を解決して天国に行った。
火葬を望みながらも「焼きすぎないように気をつけてくれよ」とちょっと心配しつつ。