島原の乱について思うこと
日本経済新聞6月22日夕刊、文学周遊で飯嶋和一氏の「出星前夜」が取り上げられていた。徳川幕府が支配体制を強化する中で起こった幕府を震撼とさせた反乱だった。この反乱の底流には重税に喘ぐ農民に苦しみがあった。島原の乱では天草四郎時貞が有名だ。原城に立てこもった一揆軍は、ポルトガルが軍艦で助けにやってくると期待していたとの説がある。天草の民衆3万7000人は12万を超す幕府軍と対峙、3ヶ月間に亘る戦いの後、全滅した。さて乱の後、鈴木正三の弟、重成は幕府直轄地になった天草4万2千石の初代代官に任じられた。天草島は荒廃を極めていた。重成はキリスト教の影響を除くため、神社、寺院の保護に努めた。一方重税であることを認めた重成は天草4万2千石の高を半減して2万1千石に評価替えするよう幕府に上申を重ねたが、認められず江戸駿河台の自邸で切腹した。正三の息子重辰が二代目代官に任じられ、重成自刃から7年目、幕府の認めるところとなった。このことを徳とした天草の人々は「今の自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のおかげだ」と島内の各地に鈴木大明神とか鈴木塚を設けて祀った。歴史は重層的だ。輝いて見える人だけではなく、自ら一歩引いて自分の責任を果たした人にも目を向けていきたい。いつか島原、天草、長崎を、キリシタン文化を訪ねて旅したいと思う。そして天草では天草島民の暮らしのために身命を投げ打った重成の足跡も辿ってみたい。