別れの言葉

 

今日は新約聖書ヨハネの福音書13章から16章を読みながら、「別れの言葉」について想いを巡らした。人は誰でもいつかこの地上を去る。別れの時だ。イエスは「過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と書かれている。この4章はヨハネの福音書のハイライトと言ってもいいだろう。イエスの言葉が私の胸を激しく揺さぶる。14章7節イエスは言う。「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父を知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、またすでに父を見たのです」これに対し弟子のピリポが言う「私たちに父を見せてください」この言葉に衝撃を受け、イエスは叱責の思いをこめて言う「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は父をみたのです」わたし達はこの世を去る時、愛するものたちに別れの言葉を告げる。別れの時、わたし達はお互いのことを深く知るだろう。万感の思いを込めて。「ブッダの人と思想」(中村元・田辺祥二)によるとブッダはアーナンダと修行僧に次のような別れの言葉を与える。「さあ、修行僧たちよ。おまえたちに告げよう。「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい」と。『大パリニッバーナ経』中村 元先生はこの本を以下のような言葉で締めくくっている。

「ブッダの説いた教えと、制定した戒律は以後の仏教者の規範となりましたし、無常の教えと努め励むことは仏道の根本となりました。こうしてブッダは亡くなりました。・・・渾身の無常説法であります」

イエスもブッダも偉大な宗教の創始者であり、それに相応しい別れの言葉だ。わたし達は彼らに比べ(比べることさえできないが)小さき者だ。しかし同じようにこの世をいつか去っていく。私の別れの言葉はどんな言葉か。別れの言葉を準備することは、お互いを良く知ることであり、自分の人生を深い流れとして知ることにもなるだろう。そんなことを考えている時、若い頃読んだ詩集、「ガダルカナル戦詩集」を思い出し、本棚から取り出し読んだ。一つひとつの詩が胸を打つ。

「大勢の戦友たちが、自分で自分を始末しながらつぎつぎ冷たくなっていくのを俺達は見てきた。俺も亦その日が来たらそのようにするつもりで。それだのに新しい戦友よ、君は手をのべてくれるのか。俺達はこんなになって生きて帰って来た。はたして何をしたというのだろう。君の手に甘えてそれで良いのだろうか。ああ、死んだ戦友たちよ。俺達はこれで良いのだろうか」(生還)

人生には別れが宿命である。しかしわたし達は死者とともに生きていく。生きていかなければならない存在だ。死者もまたわたし達と共に生きている。別れの言葉を絆として。