人生を完成させるとは?
自分の人生を完成させる、と私たちが言う時、それは何を意味しているだろうか。私たちは若い人が突然亡くなった時に、「まだ若いのに残念だ」と言う。先週お隣のご主人が亡くなった。50代後半だった。心筋梗塞で突然の死だった。ある人が若くして亡くなった方について「短い人生だったが、自分の使命を全うして天国に召された」と言っていたのを思い出す。一方70歳後半で亡くなったTさんのことを思いだす。病院にお見舞いに行った時、Tさんは「まだまだやりたいことがある。まだ死ねない」と生きることへの強い意欲を示していたが、間もなく天国へ召された。私も60代後半。まだまだ頑張るつもりでいる。なぜなら本に例えたら自分の人生の最終章をこれから書かなければ、死んでも死に切れないと思っているからだ。最終章には自分がこの人生を生きてきた意味、自分という人間がそもそも何だったのか、はっきりとつかみ、「自分は与えられた人生をどのように生きたのか」裏も表も一緒に書き込みたいと思う。私自身について言えば、誇れることなど何もない。だから正直なところ、「私はこのような人生しか生きられなかった」という、後悔が滲む内容になるかもしれない。歳を取ると生活の不安、健康の不安に加えて、存在の不安に直面させられる。私の友人がある時、存在の不安を口にしたことがある。人生最終章には存在の不安を超えた存在の平安を書ければと願う。何が存在の平安に導くのか、そこに宗教の最大の貢献があると思うが、これは私が現在取り組んでいるテーマでもある。