イエスの福音書理解の一視点

新約聖書の4つの福音書に共通していることはイエスと弟子達のメシアについての理解の決定的違いだ。弟子達はイスラエルをローマ帝国の支配から解放する政治的支配者としてメシアを考えている。一方イエスはアッバなる父なる神の愛がこの地上の、一人一人に及ぶものであることを伝える、そのことをメシアの役割と考えていた。そしてこの地上の命が終っても天の御国で新しい命を得て、神とともに生きることができる、そのための贖いとして人々の罪のために死ぬことを地上の生涯の目的としていた。

このメシア観の違いはイエスが復活した後も続いていたことは「使徒の働き」1章の次の言葉からもはっきりしている。

使徒はイエスにイスラエルのために国を再興することを切望するが、イエスは使徒たちが聖霊を受けてイエスの証人となることを最後に伝えて天に昇っていった。

要するに使徒たちはイエスが何者であるか、つまり聖霊を受けるまで分らなかった。言い換えればペンテコステの日に聖霊を受けて初めて、イエスが何者であるかを本当に理解し、証人として生き、生涯を全うした。

イエスは生前、自分が何者であるかを使徒たちに問い、答えさせたが言葉はとにかくとして使徒たちは最終的には政治的解放者としてイエスを見続けていた。ユダが裏切ったのは政治的解放者としてのイエスを見限った、ということだろう。

最も親しい弟子である使徒たちでさえ、イエスを誤解していた。

イエスは孤独だった。誰一人イエスを理解しているものはいなかった。家族でさえ、イエスは気が狂ったと本気で思っていた。イエスの孤独感はいかばかりだったろう。

私は最近この視点を加えながら、福音書を読んでいる。