「顔の見える」消費者と「顔の見えない」消費者・東西比較

12月7日付けの日本経済新聞の「読書」欄に興味深い書評が載っていた。寺西重郎氏の近著「経済行動と宗教」を慶応大学教授藤田康範氏が紹介している。私の関心を引いたのは以下の個所だ。

・・・日本では『身近な他者に評価されると救済される』という『世俗的易行』の教えが鎌倉仏教の頃から広まった結果、人々が『顔の見える』消費者のためにそれぞれの職業に専心するようになった。英国では宗教改革の結果、人々が身近な他者を排除して神のために禁欲的労働に励み『顔の見えない』消費者に向けて大量生産するようになったと説く。日本の『需要主導型経済システム』、英国の「供給主導型システム」の成立である。・・・

書評だけから著者の主張に云々するわけにはいかないが、以上の説から触発されたことを書き留めておきたい。

1.顔の見える消費者。最近友人と話したことだが、商店街のレストランは味も値段も頑張っている、ということだった。地元の人達に「あそこの店は美味しくない。値段以下だ」と言われたらやっていけなくなる。顔の見える消費者にリピーターになってもらうために必死だ。一方顔の見えない消費者。あるファミリーレストランで最近昼食をとった。メニューの写真を見て選んだが、実際に運ばれてきたものは期待を裏切った。私はフアミレスの従業員にとっては顔の見えない消費者だったのだろう。二度とその店に行こうとは思わない。

2.マックとケンタッキーフライドチキン。マックは中国産の鶏肉を使ったことによって品質面でお客の不信を買い、現在苦境に陥っている。一方ケンタッキーは国産の鶏肉を使い続けたことで業績は安定している。マックの経営陣には消費者の顔が見えていなかった、いや見ようとはせず、数字だけ見ていた。ケンタッキーはいつも消費者の顔を見続け、忘れかけようとした時も思い出していたのだろう。

3.大量生産、「供給主導型システム」は見込み生産した商品を売らなければならない。そこでマーケティングの登場となる。消費者にドンドン消費させる。それによって企業は成長し、場合によっては巨大化する。

しかし、と私は思う。「供給主導型システム」はいずれにしてもロスを大量に発生させる。もうそろそろ『需要主導型経済システム』に切り替えても良いのではないか。

本当に必要なものはそれほど多くはないのだから。