「本を読む」と「考える」
最近若い女性でスマポを見ている時間が非常に長い(確か6時間とか)という調査結果が出た。「そうだろうな」と思う。道を歩いていても、電車に乗っていてもスマポを見ている人が多い。私も人のことは言えない。I-Padを持って外出する。持っていると、ついつい開けて、画面を見る。まず見るのはメールだが、それが終るとヤフーの画面を見る。見ている内に他のニュース、面白そうな動画迄検索してしまう。思わぬ面白いデータに接することもあるが、これがネットの怖いところかもしれない。惰性でいつの間にか時間を浪費する。どこかで歯止めを掛けることが必要ではないだろうか。ということで最近では出先でI-Padを使う時はできるだけ、メールに絞って見るようにしている。仕事の関係のメールとフェースブックだ。さて最近読書をする時間が減ってきているように感じる。読書も情報を仕入れる読書だけでなく、考えることを求める読書も大事だ。少し大袈裟に言えば、本質的なこと、根本的なこと、長期的なことを考える読書にやや餓えている。じっくり本を読みたいと思いながら、そのための時間がなかなか取れない。中年期迄は夕食後、夜、時間をとって読書をしていたが、老年期になると夜は疲れが出てきて、また眠くなり、夜の読書はシンドクなってくる。それで朝早く起きてと思うが、朝は気持ちが良いため、じっとしていられなくなる。せいぜい1時間の読書だ。活字離れ、出版不況の時代、昔のように読書は日々の生活の中で優先順位が下がってきているのだろう。しかし、古い世代に属する私は1週間、どこかでキチンとした読書をしていないと、精神的に落ち着かなくなる。最近では読書自体が目的ではなく、読書をキッカケにして考えることが目的になっているようだ。そして本を読みながら、著者が既に亡くなっていたりすると、どこかで「遺書」を読んでいるような、厳粛な気持にもなってくる。読書とはそもそも人間生活にとってどのような行為なのだろうか。