一生涯探究を続ける
今日は千代田区立高齢者センターの屋上菜園の様子を見るために神保町に出た。いつものように古本屋街を歩き、覗いてみる。日本思想体系シリーズの(岩波書店)の山片蟋桃と富永仲基のものを探すが見つからない。その代わりというわけではないが、「石門心学」があったので購入、800円。私にとってはお買い得だ。その際、一誠堂書店の方に山片蟋桃と富永仲基のものはありませんかと聞くと、「最近までありましたけど、売れてしまいました」「そうですか、タイミングですね」「そうですね、また折りを見ていらしてください」。カフェで早速本を開いた。この日本思想体系を読む前に、私はいつも添付されている月報を読む。月報には古田紹欽氏の「求道者としての梅岩」山住正巳氏の「如何如何と問うべし」他2氏の文が掲載されていた。私は山住氏の次の指摘に特に共感を覚えた。「梅岩が町人に自覚を訴えるよりもなりよりも、まず自分自身の主体性を自ら形成していった」「自己学習を生涯にわたって続けた人であり、「如何如何」と問いつづけるこの教師は、民衆を魅する教師となることができた」。この姿勢、生き方は私達にとっても現代的意味を持っていると思われる。夥しい情報が溢れている現代に生きている私達はどこか思考力が浅くなっているのではないだろうか。本当はそうでないのに分かったつもりで生きているのではないだろうか。
冒頭の「斉家論」(石田梅岩)。現代文と異なるが、私にも何とか読める。以前読んだ原典「平家物語」はかなり難しく、途中でギブアップだった。読みながら思ったことは、江戸時代から明治に移行した時の文章日本語の確立についての司馬遼太郎の指摘である。「坂の上の雲」の中で司馬は近代文章日本語の規範として夏目漱石、正岡子規に加え、秋山真之を上げていた。確かに秋山の「連合艦隊解散の辞」を読むと格調の高い漢文をベースに、起承転結も含めた論理展開を感じる。そんなことを思い重ねながら「斉家論」を読み始めている。