第1話「自主廃業という選択肢」
私が会社を自主廃業してから早いもので20年経った。自主廃業が結了したのは2001年1月だった。自主廃業を決断したのは1999年の9月、結了迄の約1年半、倒産の危機を感じながら、崖縁の道を歩み続けた。血圧は上がり、髪の毛も白くなっていった。結了時私は54歳になっていた。会社廃業は人生の廃業ではない、これから自分にふさわしい新しい人生に向かっていくのだ。そう自分を奮い立たせようとしたが、自主廃業のための労苦は予想以上だった。なにか抜け殻のようになっていた。
ずっと昔のことのようでもあり、また当時の記録を読むとまるで昨日のことのように思い出される。失敗と挫折が続いた私の人生の中で、自主廃業は大きな、いや最大の山だった。その山を何とか乗り越えた後の年月は自分が本当にやりたいことを見つけるために、模索の旅だった。まさに試行錯誤の連続だった。まだまだ働かなければならない年齢だった。世間では会社人生の仕上げの時期だ。以前勤めていた会社の同僚が役員になったとの話も聞いた。それに引き換え自分は・・・。
その頃、三条正人と若山あずさが歌った「昭和枯れすすき」を私は何度も何度も聞いた。私は「力の限り生きた」だろうか。「未練などない」だろうか。そうは言えなかった。結局自分は花の咲かない枯れすすきのような人間なのかもしれない。
さしたる固定的収入もなく、6年間は貯金を食いつぶしていた。小さな会社の顧問、セールスレップの仕事、仲間と一緒に始めた営業開発倶楽部。しかしいずれも長続きしなかった。虚しさ、寂しさに襲われる日々が続いた。結局自分が安定した仕事につけなかったのは自分の中に能力がなかったからだ、そう思わずにはいられなかった。
60歳になったのを機に年金の申請をして、年金の受給が受けられるようになった。これで最低限の生活はできる。家内も少しは安心したことだろう。
今回自分の自主廃業物語を書こうと思った理由は、2つある。
- 新型コロナウイルスのために会社を、あるいは店を閉じようと考えている経営者が多くいるのでないか。できれば倒産する前に会社を自主廃業する方がダメージが少ない。倒産すると自分の家も財産も失うことになる。自分の家があり、健康であればなんとか生きていける。再起の可能性も高くなる。
- またこれを機会に、仕事=人生、という生き方ではなく、自分の人生をもっと豊かにするための視点を経営者の皆さんに持って頂きたい。仕事で成功しても人生で失敗する人がいる。仕事で失敗しても人生で成功する人がいる。会社勤めの時、マレーシアに駐在した。その時ある会社の経営者から会社は卵を産む鳥で、卵を産まなくなったら処分する、会社はあくまで利益を上げるためのツールだという話を聞いた。
20年経った今、改めて思うことは今私が家族と一緒に暮らし、自分のライフワークに取り組めるのは自主廃業できたからだ。倒産していたらどうなっていたか、それを考えるだけでもゾッとする。日本では倒産した会社経営者への世間の目は厳しい。敗北者、敗残者扱いされる。私は「昭和枯れすすき」を長いこと、倒産者夫婦の歌として聞いていた。
自主廃業は言うまでもなく、自分の力だけでできるものではない。多くの人達の理解と協力があったからこそできたことだ。それらの人々への感謝もこめて、この物語を綴っていくことにしたい。 (第1話 了)