第2話「 業務日誌書き始める」
解散を決める前から、一冊のノートに記録を業務日誌のように書いていた。1ページ目は2000年8月22日。ひどく疲れた時、あるいは混乱して気持ちの整理がつかなかった日もあり、少し抜けている部分もあるが、ほぼ毎日書いた。自分を支え、支え続けるために書いた、と言うのが真実に近いだろう。書くことによって冷静に、客観的になることができた。また自分自身の叱咤激励ためにも。
日々の積み重ねの結果、業務日誌は100ページを数えるまでになった。一つのドラマの終わりから始めに向かって改めて遡っていくと、結末に到るまでなんと様々なことがあったものかと思う。最初からこれほどの作業が、またプレッシャーが有ることが分かっていたら、思わず後ずさりしたかもしれない。とにかく会社を解散させるということは私にとっても初めての経験であり、また解散が途中で崩れ、倒産してしまうのではないかという不安がずっと最後まで消えず、自分との厳しい闘いとなった。解散業務を続けてく中で、いくつかのことに気付いた。当たり前のことも含めて列挙してみたい。
- 解散を遂行するためにはメインバンクと最大の仕入れ先の支援が鍵を握る。経営内容について日頃から定期的な報告・説明を率直にしておくことの大切さ。
- 撤退戦を最後までやり抜くためには、最後まで社長(代表清算人)と一緒に業務に誠心誠意携わってくれる数名の社員がいなければならない。辛く、悲しい仕事となるが、私の場合、明るい気持ちと雰囲気を心掛けてくれた社員によってどれだけ励まされたことか。
- 不動産の売却はタイミングと縁。足元を見られることは避けられないが、弱気にも、またあまり欲張って強気になりすぎてもいけない。最初の段階で来た引き合いの中でできるだけまとめるようにする。一旦波が消えると次の波が来るまで暫く待たなければならない。段々状況が厳しくなる。
- 在庫は悪である。在庫処分に入った時、二束三文になってしまうことを改めて痛感。貸借対照表では資産となっているが、これは会社の実態、純資産把握上、問題がある。当社の場合は在庫のマイナス面が大きくなっていた。敢えて悪、という次第。
- 会社は社会的存在であり、公器である。多くの取引先(販売、仕入れ、総務、経理関係)によって成り立っている。特に日頃は余り目立たない取引先が多く在り、お世話になっていることに気付かされる。また当社との取引に大きく依存している取引先もある。
- 会社を解散しなければならない事態になった原因は社長にある。更に言えば、解散業務の中で「経営とはどうことなのか」「社長として何が欠けていたのか」が少しづつ見えてくる。
- これから自分はどんな仕事をしたいのか、次の仕事の夢を描くこと。そうすれば目前の苦しさを耐える力が生まれてくる。そんな余裕はなさそうに思えるが、上記⑤⑥との関連で徐々に夢が生まれてくるものだ。
これから時系列的に物語を綴っていくことにしたい。事実関係については私の責任で述べられる範囲でできる限り正確に述べていくが。関係者に迷惑がかからぬよう努めていきたいので、場合によっては曖昧な表現になることをあらかじめお断りしておきたい。
このような記録を残す目的はただ一つ。今の時代、生き残りのための競争激化、事業継承問題が深刻になってきている。戦後の経済復興・高度成長期に生まれた中小企業は多くの問題を抱え、また経営基盤が大手に比べて薄い。現在の会社の寿命が尽きかかっていると判断したら、まだ足元の明るい内に会社をたたんで、再出発をはかることを真剣に考えてほしいと思う。会社を失うことは経営者であれば辛く悲しいことだ。だがそれ以上に考えなければならないことは人様にまた社会に迷惑をかけてはならないということではないだろうか。倒産は社会的犯罪だと明言した経営者がいる。一度倒産を経験し、筆舌に尽くしがたい苦しみを、また負い目を経験した経営者だ。人生はやり直しがきく。終わり良ければ全て良し、との格言もある。解散つまり自主廃業できれば取引先、また金融機関に迷惑を掛けなくて済む。他人の目を恐れて、あるいは避けて道を歩くのは本当に辛いことだと思う。決断を早めにすることは、諦めが早いと人からは誹られるかもしれないが、「潔く決断した。後になれば分かることだ」と泰然と受けとめれば良いのではないだろうか。それでは自主廃業物語を始めたい。
(第2話 了)