多様性ということ・野菜の鍋を食べながら思うこと

夕食に家内が鍋をつくってくれた。野菜たっぷりの鍋。鳥肉のミートボール、豆腐、シイタケが入っている。やはりこの時期は鍋がうまい。いろいろな野菜から味がでるのか、スープも穏やかで、しかもさっぱりしていて美味しい。鍋を食べながら家内が、野菜も、人間も多様性があるからいいのじゃないかしら、と言う。確かにそうだと思う。野菜の場合は、例えば今晩の鍋の場合は、ダイコン、ホウレンソウ、ネギ、キャベツ、ニンジンなどが入っている。野菜の場合はまず味がぶつかり合うということはないのだろうが、人間の場合はぶつかり合いそうな時がある。それぞれ性格が異なり、得意、不得意もある。そのような人々が多様性を一つの味のようにするには、それなりのプロセス、努力が求められる。それがリーダーの役割の一番大事なところではないか。チームも組織も「人々の鍋」かもしれない。それはそれとして、わが家の場合は、武蔵野農園で収穫できる旬の野菜を材料にして鍋をつくる。今晩の鍋ではダイコンを半分使ったとのこと。これから冬に向けてホウレンソウ、コマツナ、シュンギク、ターツアイ、サトイモ、ニラなども鍋の材料になっていくことだろう。いろいろな多様性を楽しむことができそうだ。

 

心配で夜も眠れない時代のこと

夜、床について何も心配せずに眠れるということは幸せだ。最近実感として感じている。昔、仕事の心配事で眠れずに朝を迎えたことが何度もあった。サラリーマン時代にもそういうことがあったが、その後小さな会社を経営していた時が酷かった。ウツ的な状態になっていたのかもしれない。一晩中天井板の木目模様を見ながら、ああでもない、こうでもない・・・その内最悪のケースを考えてしまう。今から思うとよく持ちこえたものだと思う。現在も生涯現役で仕事を続けているが、心がけていることは「夜眠れなくなるような仕事はしないようにする」だ。勿論仕事だからそれなりのリスクはあるが、そのリスクも最小限に抑えるようにしている。以前よりビジネスリスクに対する感覚が強くなってきている。できないことはできないと、身の丈を考えて諦める。無理をしない。最近思うのだが、仕事をする上で大事なことは「心の平安」だ。さらに言うならば、「楽しむ」ことだ。ノルマのある仕事をしている人はそんな「悠長な」ことを言っているわけにはいかないだろうが、シニアである私の場合は「仕事を楽しむ」をモットーに仕事に取り組んでいきたい。それがシニアビジネスに許される特権かもしれない。

今日も一日無事に朝から晩迄活動することができた。やるべきこともやった。自分がやっていることはささやかなことかもしれないが、それはそれでいい。自分の志に生きる人生を最後迄生き抜きたい。またどんなに小さくても社会のために役立つ仕事ができればありがたい。今日一日働いてくれた体の各器官に「お疲れ様でした。今日もありがとう」そう声をかけて、心配事なく毎日眠れるようになること。それが私の願いだ。

 

散歩の効用

ほぼ毎晩散歩している。目標は8000歩以上。できれば一万歩以上。志木市の健康促進運動の一環として万歩計を貸与されて使っている。データは自動的にセンターに送られる。志木駅の切符売り場の横にディスプレイがあり、そこの万歩計を当てるとデータが読み取られる仕組みだ。ディスプレイは駅の他に食品スーパーのヤオコー、丸井、その他にも置かれている。仕事で外出する時にも持っていく。ただ仕事で歩き回っただけでは足りないので帰宅して夕食後、散歩に出て上乗せする。その時は背筋を伸ばして、できるだけ早足で歩くようにしている。散歩というより、速歩に近いかもしれない。

在宅で一日を過ごした日は1時間は歩かないと8000歩に迄行かないので、1時間以上歩く必要がある。そして最後は駅迄行って、万歩計をディスプレイにあてがって「シャリーン」をする。

夜の町を歩きながら、自分が住んでいる町が、風景が変っていくのを感じる。駅に行く道の両側も随分変った。民家からマンションに変っている。しかし、道そのものは変ってはいない。過去30年以上自分の家から駅に向って歩いた。仕事を終えて駅から自分の家に帰っていった。この1本の道を。私の仕事人生をこの1本の道は知っているはずだ。

 

来年の手帳を買う

かつてはいろいろな手帳を買って使っていたが、2012年志木駅の近くのビルに入っている旭屋書店で一風変った形の手帳を見つけた。ピンとくるものがあって、1冊購入して使い始めたらその便利さにすっかり嵌ってしまい、それから毎年購入し、今日来年分を2冊購入した。1冊は自分用、もう1冊はプレゼント用。

この手帳が私にとって便利なのは左のページは毎日のスケジュール表になっていて、右のページはプロジェクト表になっているので、スケジュールとプレジェクトの進行をリンクできることだ。ページを開くと2週間分のスケジュールとプロジェクトの進行状況を一覧的に見ることができる。そして見ていると気がつくことがある。また楽しい。

使っている内に自分なりに空白のスペースをカスタマイズして、自分にとってもっと使いやすいようにしている。

2012年、2013年、2014年、2015年の自分の歩みが手帳には記されている。

また段々厚くなってきている。空白ページにその時のメモ、新聞切抜きなどを貼っているからだ。手帳を見ると、自分が何をしてきたかを知ることができる。そしてこれからどこに向っていくかも。この手帳に出会えたことは私にとって大きかった。

使っている手帳は y-Pad 「BUNPEI GINZA」だ。

 

会社の後始末をする人々「しんがり」

「しんがり」という本が売れているらしい。新聞の広告によれば「1997年の山一證券破綻時、最後まで後始末のために尽力したのは「場末」と呼ばれた部署の社員たちだった。筋を貫いた彼らの人生を描く」。私が昔経営していた会社は山一證券のビルのすぐ近くにあった。地下鉄東西線の茅場町駅の改札を通り、地上に出て隅田川に向って永代通りを歩くと左側に山一證券の高層ビル、道路を渡ったところに私の会社があった。永代通りを途中迄山一証券の社員の群れの中を歩いていた。破綻する前、山一證券に勤めている社員で小児麻痺のためだろうか、足に後遺症があって松葉杖を使っている社員と一緒になった。雨が降っているので傘がさせない。そこで傘を差しかけて一緒に歩いた。話しているうちに彼が言った言葉が耳に残っている。「ウチの会社はもう駄目ですよ」

最後まで後始末をしたのは12人だったとのことだ。もう18年前のことになるが、山一證券の破綻時のことは昨日のように覚えている。この本を是非読みたいと思って本屋に立ち寄っているが、売っていない。そのうちどこかで見つかるだろう。

山一證券が破綻した後、数年経って、私は会社を自主廃業した。50名近くいた社員を退職金を払いながら段々減らしていき、最後は4人となった。最後に本社ビルを売却して最後迄一緒に残務処理をしてくれた3人の社員とも別れ、最後は自宅で、一人で残務処理をした。撤退戦を支えるのは確かに「誇り」かもしれない。私の場合は「誰にも金銭的迷惑をかけない」という決意が支えだった。「なにがなんでも自主廃業をやり遂げる」。意地だったのかもしれない。無事自主廃業をやり遂げた後はかなり長い間虚脱状態に陥ったことを覚えている。

 

詩を読んで眠り、目覚めてすぐ詩を読む

昨日仕事の帰りに駅のすぐそばにある図書館で本を2冊借りた。最近散歩の途中で図書館に寄った時、立ち読みしていてもう少しゆっくりと、時間をかけて全部読んでみたいと思った本だ。1冊は長田弘の「最後の詩集」。もう一冊は火坂 雅志の「武士の一言」。長田は今年、火坂は昨年亡くなっている。

昨晩は寝る前に布団の中で、エッセイ「日々を楽しむ」の2編、「お気に入りの人生」と「何もしない」を読んだ。気持としては小さな宝石、小さな真珠をゆっくりと眺めるような、楽しむような読み方となった。もっと読めたが、2つで止めて寝室の蛍光灯を消した。布団の中で長田弘さんの気持ちに自分の気持が静かに重なっていくのを感じていた。「お気に入りの人生」の中で長田さんは「食べた後にはもう一つ、間が欲しい」という。「何も考えない、ほんの少し無の時間」。この話はお気に入りの人生への思いに拡がっていく。もう一つは「何もしない」。何もしないためになくてはならないもの、それは毎日座る椅子となる。

長田さんのエッセイを読みながら布団の中で思ったことは、人生年齢をとるにつれて馴染みの時間、馴染みのものがいつの間にか出てくる・・・ということだった。

今の私の場合、馴染みの、気持ちが無になれる「間」のような時は、2階の書斎の窓から眺める青空と雲だ。最近青空としての私、という意識が出てきてからは青空を見上げる時は、自分を無にする時になっている。

馴染みのものは旅行先で何気なく拾った2つの石。一つは静岡県三保の松原の海岸で拾った茶色で小判状のもの。もう一つは埼玉県小川町の槻川で見つけた、青みがかったサツマイモのような形をした石。机の上で書類を抑えるために使っている。・・・

そんなことをぼんやり考えながら、また今日の一日が無事に終ったことに感謝しながら睡った。目覚めてから暫く朝焼けの空をボンヤリ見てから、枕元の長田さんのエッセイの続きを読んだ。「習慣のつくり方」「ドアは開いている」「探すこと」「ネムルこと」。

とりとめもない小さなことの中に、人生の宝石とも言うべきものがあるのではないか、長田さんの詩集を閉じながら、そう思ったことだ。

会社の後始末をする人々

 

労働と仕事と管理

私のやっていることは何だろうか、と考えることがある。労働なのだろうか、仕事なのだろうか、管理なのだろうか。またそれぞれどのように違うのか。たまたま本棚から手に取った本「聖書の奇跡物語」山形孝夫著を読みながら考えされられた。山形氏は「農耕民と遊牧民の<労働>観」の中で興味深い指摘をしている。「旧約聖書が重視しているのは労働ではなく、管理、といっても神の委託のもとでの管理です」。罪を犯したアダムは労働に従事する。「労働は罰であり、苦役であるのは不毛な反復行為になりさがる」からであると。

確かに同じことを繰り返すことは無味乾燥感、徒労感を生み出す。シジフォス神話になりかねない。ベルトコンベヤー方式の大量生産はそこで働く人々を生産ラインに縛り付け、働く人々に反復行為を強いているのかもしれない。勿論そのような職場でも創意工夫の余地はあるだろう。労働を仕事に変化させる要素の一つは主体的な創意工夫なのではないか。

日本の製造業の強さはこのあたりにもあると思われる。

ところで以上のような考え方に立ったところ、農作業は労働なのか、あるいは仕事なのか。

ある人が高齢の農業者に質問した。「今まで長く農業を続けることができた理由は何ですか?」答えはこうだった。「面白かったからだよ」

日本の農業が衰退した理由の一つは「農業から面白さを奪ったことにある」という指摘がある。それでは管理とは何か。英語でいうとマネジメントということになる。旧約聖書の創世記では「すべての生き物を支配せよ」と言われている。統制が起点になっているようだ。ところでエデンの園を追放された後、「すべての生き物を支配」する管理業務は誰がやったのだろうか。労働、仕事と比較して「管理」の定義は簡単ではない。

それにしてもと思う。旧新約聖書をバックボーンとした欧米人にとって労働は罪の結果であり、苦役という考え方なのだろうが、東洋人である私は労働は確かに苦役という面を持っているが、一方で救いでもあると思われてならない。

 

インタービーイング(相互存在)の思想とビジネス生態系

高名な仏僧ティク・ナット・ハン師はすべての存在が相互に関係していると言う。これは仏教の「縁」から来ている思想なのだろう。近代科学の発展は要素に還元して、個々の要素を科学的に分析し、合理的に説明するという方式を取ってきた。それはそれで間違っていないとは思うが、一方で限界も見えてきたのではないだろうか。特に自然科学の場合、私達がまだ自然を全体として「対象化」できていない。つまり部分的、断片的にしか把握していない、という問題がある。最近では複雑系の科学も生まれてきているが、それは取りも直さず人間には科学的・合理的に自然全体を「対象化」できないということの、人間の側からの「告白」かもしれない。そのような時代に、ティク・ナット・ハン師の教え、インタービーイング(相互存在)の思想は現代人に、救いと安らぎを与える。そこには分離、対立を超えるものがある。

ビジネスの世界でもそうでないだろうか。最近の一つの傾向として「競争から共創へ」がある。個々の会社が競争している状態から、共存・共創に向かい始めている。この共存・共創は小企業同士のこともあるだろうし、小企業と大企業という組み合わせも考えられる。

ビジネスの世界でもインタービーイング(相互存在)の思想を大切にしたい。インタービーイングを支えるものは信義という企業倫理だ。

文字を読むだけでなくコンテクストをイメージする

本を読む時は当然文字を読んでいるわけだが、時として立ち止まってコンテキストをイメージするとコンテクストの世界に入っていくことができる。行間を読むとも言われる。例えば新約聖書の福音書は叙述的で、細かい心理描写は割愛している。福音書を読む者はゆっくり、時には立ち止まりながら、コンテクストをイメージしながら読むことを求められる。私が最近特にコンテクストをイメージしたいと思わされたのはイエスがシモン・ペテロに三度「あなたは私を愛しますか」と聞かれたところだった。この個所は繰り返し読んで、私なりにコンテクストをリアルに再現してみたい。

日頃読むものと言えば、新聞、雑誌の記事、また経営関係の本が多い。コンテクストを意識して、その情況の中に入っていくというケースは殆どない。論理的な思考が発達する?一方で、段々想像力が衰えているのではないかと気がかりだ。

人間関係についても同じことが言えるのではないか。その人の言葉の真意をつかむことが大切だ。人の心の奥底には、自分の傍に居て、見守っていてほしい、自分の手をつかんでいてほしい・・・という気持ちがあるのではないか。

文字を書く場合は、それなりに考えて書くが、言葉の場合はその時の感情がバイアスを加えることが多々ある。言葉通り受け取ってはならない時もあるはずだ。

そのためにも人間研究の本でもある小説を読み、人の多様な心理を、コンテクストを意識しながら読むことが大事ではないだろうか。

今日夏目漱石の小説「こころ」を買った。

 

自分の心の深いところを観る

物事が上手く行っていない時ばかりでなく、順調にいっている時こそ自分の心の深いところを観ることを心がけたい。私たちは、事が上手く運び、成果が上がり、生産性が向上するとどうしても外部世界に目が行ってしまう。いつの間にか、心の中に無理とか歪み、さらには破れが出てくる。そしてそれらは見つめようとしない限り、分からないものだ。そしてそれらが外の世界に影響を与えるようになった時、私達は慌てる。それを避けるにはやはり定期的に自分の心を見つめる時を持ちたい。親しい人が私に向って思いがけない言葉を向けてきた時、それを訝るよりも、「私の心が、言葉が、態度があの人にそう言わせている」と気付くことが大事だ。自分を見つめることは簡単なことではない。心の奥底にいる自分の姿を見つけ出すのは、やはりそれなりの修練が必要かもしれない。最近注目されているマインドフルネスもその一つだろう。ある人は「太陽を見つめるのが難しいように、自分を見つめることは難しい」と言った。なぜなら自分の心の真実に向き合うことになるからだと私は思っている。私の場合、傷ついた、醜い自分がいつもいる。しかしもう一人の自分もいる。傷ついた、醜い自分を癒し、赦してくださるように神に願っている自分だ。

私の場合、心の奥底で、対照的な2人の自分が交わす会話に耳を傾けることが真実の自分を知る時となる。