読書について

若い頃、ドイツの哲学者ショーペンハウアーが読書について書いた文を読んだ。それがどんな時だったか思い出せないが、確か読書は人が考えたことの跡を辿る作業なので、あまり意味がないというような内容だった。そうか、そういう考え方もあるのだ、とその時はちょっと感心した。

跡を辿る作業が意味がないか、あるかは本に書かれた内容によるのではないかと私などは思うが、今迄いろいろな本を読んできたが、残念なことに、生来の記憶力の悪さもあり、今でも内容を憶えている本は少ない。本の読み方がそもそも雑読なので、文字情報が系統的に頭の中に入っていないこともあるだろう。長田弘が詩集の中で読書を「黄金の徒労」と表現していたが、まさに言い得て妙だ。

家内は「本ばかり読むと馬鹿になるわよ」とからかうが、私自身、最近嬉しいのは本がスラスラ読めることだ。従い読むスピードも早くなってきている。これは今迄読書を続けてきた効果なのだろうか。あるいは他に理由があるのだろうか。ということでいろいろな本を読んでみたい。今、特に読んでみたいのはやはり古典だ。当面は夏目漱石の小説と和辻哲郎の「風土」。そしてルカーチの「魂と形式」「小説の理論」。本棚の奥にしまわれたいたこの2冊の本を取り出し、薄っすらとたまったホコリを払って再読したい。何と言っていいか分からないが、青春時代の私にもう一度会って、現在の私が得ることのできるルカーチ理解を伝えることができれば、と思う。それは同時に自分自身のこれからの運命に立ち向かうための最後の情熱を取り戻す試みかもしれない。

 

コミュニケーション力について

会話をしていて、ちゃんと話を聞いてくれて、受け止めてくれたかな、と不安に思うことがある。こちらが話している内容とまったく関係のないことを言う人もいる。正直、こういう人と話していると疲れる。これはメールでも言えることだ。

ある会社の社長さんから問題が山積しています、とのメールが入ったので、私なりの問題に取り組む姿勢について返事をしたところ、折り返しメールがあったが、私のメールに対する返事はなく、別件についての連絡だった。

その時の私の率直な気持ちは余計なことを言ったのかもしれない、折角気持ちをこめてメールを書いたのにちょっとがっかりだな、というものだった。

多分相手にとってピントの外れた余計なことだったにしても、「アドバイスありがとうございます、参考になります」程度のことでも言ってもらえれば、うれしい。

会話にしても、メールにしても、「あなたの言ってくださったことを確かに受け止めました」というサインを送ることは、小さなことかもしれないが、意味があると思う。

「・・・さんは○○と思うんですね」という返事、相手の言葉の繰り返しになるが、それもサインの一つだろう。

「・・・さんの言われたことはこのように理解していいでしょうか」という答え方もある。

また「・・・さんの言われたことでこんなことを考えました」もいいのではないか。

大事なことは、あなたの言葉を私は心の真ん中で受け止めました、ということを相手に

よく分るやり方で伝えることではないだろうか。伝え方はそれぞれ工夫すればいい。

 

昭和という時代

ちあきなおみの「昭和えれじい」を聞きながら、私が生きた昭和とはどんな時代だったのだろうか、とぼんやり考えている。中村草田男の「降る雪や 明治は遠くなりにけり」は有名な句だが、草田男は明治の何に思いを馳せていたのだろうか。激しく降る雪の白さが恐らく過去が現在であり、現在が過去であるような、その2つの時制が一つになったような感覚を草田男に与えたのではないか。淡々とした調子の句の裏に草田男の狂おしい感情を私は感じずにはいられない。

さてそのような気持ちで私は昭和という時代を思い出すことができるだろうか。昭和は63年間続いた。その中で私の気持ちが向くのは、高度成長期の一見明るい昭和40年代、50年代ではなく、昭和末期だ。経済成長の歪み、綻びが出てきた時期。人々の時代に

対する失望感、挫折感が広がり始めていた。高度成長の傷跡があちらこちらに露出していた。恐らく工業化の経済成長モデルが行き詰まっていたのではないか。私も仕事をしていて何となくだが、今後どうなるのだろうと不安な気持ちになったことを覚えている。

今になって考えてみると、この工業化経済成長モデルで日本の経済は成立つのか、を立ち止まって根本から見直す、いわば踊り場の時ではなかったかと思うが、その直後に発生した不動産バブルで沸き立ってしまい、貴重な時期をむざむざ失ってしまった。そしてバブル崩壊後、日本経済は大きく変質してしまった。現在の日本国の財政状況は同じ敗戦国のドイツと比べると月とすっぽんだ。

「死んだつもりでもう一度 待ってみようか ねぇ お酒 いつか来る春 昭和川」

ちあきの歌を聞きながら少し物狂おしい気持ちになるが、それを静めて一句。

「えれじいや 昭和と共に 去りにけり」

 

エバーノート講習会

エバーノートの無料講習会に参加した。レジュメの表紙には「全世界1億人以上 日本でも800万人以上 利用企業が国内1,000社 クラウドサービスの代表格」とある。

エバーノートについて日本経済新聞に紹介されていたので、関心があった。今、私が取り組んでいる屋上菜園のデータとビジネスモデルデザインのデータを集約して構造化し、随時検索できるようにしたいと思っていたが、エバーノートならそれができそうだと思い、早速無料講習会に参加申込をした。

私としてはエバーノートをビジネスで使いたいので、特に「エバーノートビジネス」に関心があった。説明によると「エバーノートビジネス」は管理者権限があり、情報セキュリティの観点からも安心だ。

エバーノートの良さは構造化データだけではなく、音声ファイル、メモ、写真、タスク、位置情報、スキャンした書類、名刺などの非構造化データも利用できる。

屋上菜園で利用者に栽培指導をする場合、I-Padでデータを検索し、見せることができたら利用者も理解しやすいのではないだろうか。また私の正確なアドバイスができる。

一方「エバーノートビジネス」の導入を軌道に乗せるには超えるべき壁があるようだ。この無料講習会を開催した会社では導入のために立上げ支援事業をしているとのこと。

来年3月迄にまずは屋上菜園関係で「エバーノートビジネス」を使える、が目標だ。

 

スヌーピーの3D制作スタジオのユニークさから刺激されて

フジテレビの朝のニュース番組でスヌーピーの3D制作スタジオが紹介されていた。奇抜だと感じたのは事務所の様子だ。社員が自分の仕事をする場所を自分達仕様に変えている。

海賊船風のオフイスで仕事をしているスタッフは海賊船の船長を被るような帽子でパソコンの前に座って仕事をしている。また庭園風にしてまるで庭の中で仕事しているかのようなオフィスもある。あまりのユニークさにびっくりしている日本人の女性レポーターが社員にインタビューしたところ、社員は「毎日会社に来るのが楽しみだ」と答えていた。

集団的・規律的工業化社会としての経済成長の時期を過ぎ、三次産業の知的価値が収益源となっている高度情報化社会では、やはり個人の創造性が最高度に重要になってきている。

そのためであれば、昔風の規律などは不要なものとみなされるのだろうか。

会社としては価値につながる、そしてそれが大きな収益に結びつく創造性を引き出し、最大化できるなら個人の自由度を優先していこうということだろう。

そして私なりに思ったことはパソコンの前に座り続ける「単調さ」を回避するためにもオフイススペースを楽しい、ワクワク出来る場所にしているのではないか。であれば、今後日本の会社のオフイスでも社員による自分のワークスペースのカスタマイズが増えるのではないか。カスタマイズできるエレメントをレンタルするビジネスもできるかもしれない。

 

シニア世代の一人として人生でやり残したこと

シニア世代の一人として考えることがある。先週京都に寄って京都大学前の古本屋で深江浩先生の本を見つけ、読んで思うことがある。深江先生は私が商社に勤めながらルカーチの研究をすることの難しさをご自分の経験に基づいて私にアドバイスしてくださったのだと思う。いわば二足のわらじを履くということは生やさしいものではない、大切なことを犠牲にする覚悟がありますか、また研究を続けていく意志がありますか、と私に諭されたのではないかと今になって気がつく。案の定、私は仕事が忙しくなってくるにつれてルカーチ研究から離れていった。その程度の研究心だったと今更ながら思うしかない。

会社勤めをして、その後会社経営をして、いつの間にか齢だけはとってしまった。生涯現役で仕事はしていきたいと思っているが、この齢になってやっと分ってきたことがある。

もっと早くそれに気が付いていれば、今迄の人生も変わっていたことだろうが、過ぎ去ってしまったことを悔やんでも仕方ないので、これからの残された人生をそれこそ悔いのないように生きて、また仕事をしていきたい。

昨年自分史のような時代小説を5年がかりで書き上げ、自費刊行した。また今年は自分の今迄の屋上菜園活動を集大成し、さらに発展させていくための法人、一般社団法人ジャパンベジタブルコミュニティの発足を見ることができた。来年は日本の中小企業、ベンチャー企業、自営業のためのビジネスモデルの提案活動に力を入れていきたい。

それにしても1回限りの人生、やるべきことをやって悔いがないようにしたいものだ。

 

欠点、個性について

若い頃、自己啓発の本で背中に瘤のある王子の話を読んだことがある。王子は瘤で背中が曲がっている現在の自分が将来なりたい姿として、背中に瘤がなく背筋をすっきりと伸ばしている像を作らせた。王子は毎日その像の前に立って、自分は必ずこの像のようになると念じ続け、ついには像のように背中に瘤がない、美しい王子になった、という話だった。この話を突然思い出したのは、今朝朝の読書をしていて、こんな話に出会ったからだ。

それは背瘤のある不具な男の子をわが子の友達として、その家庭に迎え入れたある母親の話だ。母親はわが子の彼の生涯の気になる部分には触れないように命じた。その後の子供たちの会話。

「君は背中に何を背負っているのか」

背瘤の友達は当惑してしばらくためらっていると、その子は言葉をついで

「その箱の中には君の翼がはいっている。神様はやがてそれを切り開いてくださるから君は天の使のように飛びかけるのだ」

さて老年になってからコンプレックスあるいは欠点の内容が変わってきたように感じている。肉体的なことより、人間として未熟なこと、欠点の多いことである。ハリウッドの演劇学校の先生が「欠点は個性になりうる」と言っていたが、自分の欠点、コンプレックスと向き合い、受け入れることは簡単なことではない。自分の背瘤を意識しないというやり方もあるかもしれない。

ただ一つ言えることは上記の2つの話にあるように、欠点は成長の機会になりうる、ということだ。

 

深江 浩さんの本との出合い・京都今出川通りの古本屋で

島根県、新大阪での仕事を終えて、自分に対するささやかなご褒美を兼ねて京都に立ち寄った。銀閣寺に行くのが目的で、駅のロッカーに荷物を預けて手ぶらで地下鉄烏丸線に乗り、今出川駅で降りた。京都御所跡を右手に見て今出川通りを歩く。前回の時もそうだったが、銀閣寺までは相当歩く。45分ぐらいだろうか。久しぶりの京都なので、ままよ、散歩がてら今出川通りを歩いていった。途中で昼食を取ろうとしたが適当な店がないので、そのまま歩いた。京都大学の前迄来た時、吉岡書店というチョット雰囲気のある古本屋があった。何げなく店の外の箱に入っている本を見ていたら、懐かしい名前が目に飛び込んできた。私は若い頃、ハンガリーの哲学者、ジェルジ・ルカーチの思想に惹かれ、彼の代表的著作「歴史と階級意識」を読んだ。私は哲学・思想からルカーチの弁証法に関心を寄せたが、ある方の紹介でルカーチの文学理論を研究している方を紹介して頂いた。その方が深江浩さんだった。深江さんは夏目漱石の小説をルカーチの文学理論を手がかりとしながら研究しておられた。「あしかび」という同人誌の同人で、同誌に漱石研究を掲載されていた。

当時深江さんは大阪の北野高校の教師で、私は十三の駅を降りて北野高校に先生を訪ねていった。その日は四条川原町の名曲喫茶「ルーチェ」に連れていって頂き、お話をいろいろと伺った。その中でも忘れられない話の一つは、市井の研究者の厳しさだった。

仕事を終えて帰宅して、夕食を奥さんとした後、自分の書斎に閉じこもり研究に打ち込んだが、戸の向うで奥さんが泣いている声が聞こえた、と辛そうに話された。家族との団欒の一時も惜しんで、夏目漱石研究の没頭されたのだろう。

その先生の集大成とも言える本が目の前にあった。「漱石長編小説の世界」桜楓社 昭和56年10月5日 発行、だ。

先生とは暫く文通をしていたが、私自身仕事が忙しくなり、ルカーチからは離れてしまい、

深江先生ともその後没交渉となったしまった。そのため先生がその後京都薬科大学教授になられたことを存じ上げなかった。本を見ながら、懐かしい気持ちと同時に申し訳ない思いが湧き上がり、涙が出てきそうだった。

早速深江先生の本を買って、近くの中華料理店に入り、食事を注文した後、早速読み始めた。食事の後、今出川通りを歩き、銀閣寺に行くのを止めて、紅葉の吉田山に登った。山頂の東屋で暫く、思い出に耽った。

先生はその後も漱石研究を続け、大学の教授になられ、魂の結晶のような本を世に出された。その本が今私の手にあるとは・・・。

 

一日は永遠のおまけ

長田弘さんの詩集「最後の詩集」は自分のこころの傍においておきたい特別な音色をかなでるオルゴールのような詩の集まりだ。今日夕方、詩集を読みながら「One day」という詩の前で暫く立ち止まった。これは誰のことだろうか。詩を繰り返し読みながら、ある人のことを思った。そしてまた詩に帰っていった。

「朝早く一人静かに起きて

本をひらく人がいた頃

その一人のために太陽はのぼってきて

世界を明るくしたのだ」

私たちが本を読むのは昔の人の悲しみを知るためだろうか。今も昔も人が味わう悲しみは変らない。そして恐らく私たちは悲しみで時代を超え、場所を越えてつながっている。明るい世界の中で人は悲しみと向き合うことができる。

詩の半にこんな会話がある。

「黄金の徒労のほかに

本の森のなかに何がある?

何もなかったとその人は呟いた」

本を読むことは自分と向き合うこと、自分を越えた何かに出会うこと、大きな世界の片隅にポツンといる自分を見つけること。本の森を抜けたところに明るい光で包まれた場所がある。そこは永遠の時が既に流れているところだが、その流れの中から水滴のように一日という粒が落ちてくる。長田はそれを「一日のおまけ付きの永遠」と名付けた。

「永遠のおまけである一日のための本」は永遠の光の中で読む本だ。

長田はこの詩を次の言葉で締め括る。

「人生がよい一日でありますように」。人間的に見れば長い年月も結局は今日一日に集約される。よい一日とは朝毎に「奇跡のように」与えられる。

 

鎌倉幕府 源頼朝のビジネスモデル

義経人気の影で頼朝は敵役とされている。しかし火坂雅志氏は「源頼朝という人物は、たぐいまれな政治家として再評価されるべきかもしれない」と示唆している。火坂氏にそう思わせたのは頼朝が九条兼実宛に出した書状だ。九条兼実は、朝廷でもっとも頼朝に近く、その理解者だった公卿であった。

頼朝は書状で九条兼実にこう自分の思いを伝えている。

「今度は天下の草創なり、もっとも淵源を究め行はるべく候」(今は天下を草創しようとする時である。それがなぜ必要とされるのか、根本的理由を深く突き詰めて考えるべきである)。このように伝えられた九条兼実は頼朝の思いをどのように受け止めただろうか。恐らく「そう簡単に進まない」と思ったのではないか。どのような時代でも既成の勢力を抑えて新しいことを実現していくのは容易なことでない。特にそれが根本的であればそうだ。しかし頼朝は粘り強く変革を続け朝廷中心の貴族社会を根本から変え、日本で初めて真の武家政権を確立し、その後に続く武家政権の基礎をつくった。頼朝の前に平清盛が最初に武家政権を樹立したが、平家はやがて貴族化してしまった。その結果を見届けた頼朝は決して貴族化しない武家政権とはどのような政権なのか、その原型を作ったと言えるのではないか。頼朝は日本という国についての大局観を持っていた。このあたりが弟の義経とは違うところだ。鎌倉幕府による地頭職の設置は従来からの荘園領主などの抵抗があったが、ついには日本全国に広がっていった。頼朝は時代の歯車を逆転させないために苦闘したことだろう。話は飛躍するが、この武家政権があったからこそ蒙古襲来も防げたのではないか。頼朝は人気がない。ただ世間的評価とは別に政治家としての頼朝について知りたいと思う。一度頼朝の政治構想をビジネスモデル的に分析してみたいものだ。