救い」から「やすらぎ」へ

現代の宗教の目的は何か。それを考えるために日本で宗教が果たしてきた役割・目的を振り返ってみると、以下のようなイメージが浮かび上がってくる。

飛鳥・奈良時代は「国家護持」。平安時代は「悟り」、末法思想が時代を覆った鎌倉時代以降は「救い」。この時代には法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗の他、栄西の臨在宗、道元の曹洞宗が武士階級、庶民の間に広がっていった。戦乱も続き明日がどうなるとも分からない不安な日々。はかない命。人々は来世に救いを見出さざるを得なかった。

目を転じて、キリスト教も「救い」を当時の人々に伝えた。特にキリストが生まれ、育ったガリラヤ地方の住民はローマ帝国の支配と収奪、ヘロデ王による支配と収奪さらには宗教階級による収奪と律法による精神的圧迫と差別の下にいた。三重の圧迫に呻いていた。

宣教を開始したイエスは「神の国が近づいている」「救いがやってきた」という福音を伝えた。共観福音書と使徒の働きを読むと、すぐにでもこの世が終り、イエスキリストが使徒が生きている間に再臨し、この世が終る、という切迫感が伝わってくる。

しかし、末法によるこの世の終りも再臨によるこの世の終りも現実としてはなかった。

もちろん依然としてその状態が続いている、という説明もあるのだろうが、現代の人々はこの世を儚い仮の宿ではなく、真の故郷として、真に生きる場所として考えるようになっているのではないかと私には思える。

その意味でも今宗教に求められているのはあの世にむけての救いではなく、この世でより良く生きるためのこころの安らぎではないか。裁く閻魔大王、裁く父なる神ではなく、弱い私達に寄り添い、一緒にこの人生を歩いてくださる聖なる存在を私達は求めている。

金子みすずはこう詩に書いた。

 

私が寂しい時お母さんはやさいしいの

私が寂しい時仏さまも寂しいの

 

創作活動の原動力は?

時代小説「居眠り磐音 江戸双紙」を書いている佐伯 泰英さんの記事が8月19日日本経済新聞夕刊に載っていた。記事を読んでいて共感を覚えるところがあった。

佐伯氏は時代小説を書いて初めて「読者が見えた」と言っている。現代の人々が求める理想を氏は江戸時代の磐音に託した。磐音という人物像をつくりだしたところに成功の鍵があった。現代人がもし江戸時代にタイムスリップしたらどうだろうか。恐らく人権も、民主的法律もなく、また因習と経済的規制のある社会に耐え切れず、すぐに現代に戻ってくるのではないか。それにも拘わらずなぜ私達現代人は時代小説とその舞台になっている江戸時代に惹かれるのだろうか。私自身、時代小説「欅風」を書いている時、いつもどこかでそのことを考えていた。もう一つ、佐伯氏の執筆姿勢。「事前に計画は立てず、パソコンの前に座って「思いつき」で物語を紡ぐ。「着地点は頭の中にあるが、具体的にどういう物語になるか。こればっかりはやってみないとわかりません」。氏はパソコンを使い、横書きで執筆するとのこと。氏の執筆方法は私のそれと良く似ている。

最近私は、小説は「誰かに書かせてもらう」ものではないかと思っている。「誰かが誰なのか」は分からない。だが誰かが、それも多くの誰かが私のところにやってきて、私を通して小説を書いている。あるいは書こうとしている。パソコンの前で私は誰かと対話しながら「欅風」を書き続けた。

さて最後に20年前、50歳過ぎに編集者から廃業勧告を受けた佐伯氏はどのようにして「売れっ子」作家に転身を遂げることができたのか、ビジネスモデル的に分析しておきたい。

1.この転身は「生き残る」ためだった。稼がなければならない。氏は自分が書くものを作品ではなく「商品」と割り切った。売れてなんぼ、だと。

2.お客様にどのような価値を提供するか。優しき青年武士が、数々の事件に直面し、鮮やかに悪を切る痛快な楽しさ。現代人にとっては一服のストレス解消剤となる。

3.その価値をどのようにしてお客様に「届けやすくするか」。氏が選んだ方法は素早く安価に新作を発表する「文庫書き下ろし時代小説」。新作は通常新刊本として刊行され、

その後文庫化されるが、いきなり文庫というわけだ。文庫であれば簡単に持ち運びできるし、とにかく安価だ。

4.そして顧客の発見。氏はどのような読者が「居眠り磐音 江戸双紙」のコア読者かに言及していないが、私は30代~40代の中間管理職ではないかと思う。サッと読んでサッと楽しめる。喩えて言えば、藤沢周平、池波正太郎の世界よりももっと軽く、もっと身近なエンターテイメントの世界に住みたいという顧客を佐伯氏は見つけたのだと思う。

以上が累計1900万部をもたらしたのではないか。

 

2つの小石

机の上に2個の小石がある。いつもは書類押さえに使っているが、時々手にとって眺める。小さな小判の形をした石は研修会で静岡県清水市に行った時、三保の松原の海岸で拾った石だ。海岸線には小判状の石が沢山あった。朝研修が始まる前、海岸を散歩した時、拾い上げた石。波で削られたのか、表面がすべすべしている。流れ込む川もない。やや茶色がかったこの石はどこからきたのだろうか。10年以上前に拾った石だが、顔に近づけると潮の匂い?と共に、羽衣の伝説が残る美しい海岸線が脳裏に浮かぶ。そして寄せては返す波の音も。もう一つの小石は昨年野菜の有機栽培の実習を受けるために通った埼玉県比企郡小川町の川で拾った小石だ。1月、雪の河川敷きに降りて拾った小石。小川町の下里地区に沿って流れる槻川。小石は上流から運ばれてきたものだろう。少し青みがかった厚さが5mmにもならない薄い石。表面も三保の松原の小石と違い、でこぼこしている。

海の小石と川の小石。仕事の合間に、読書の合間に時々眺める。小石に悠久の時を感じながら。

 

8月20日(木)仕事の報酬は何?

神田のカフェで老年の男性と中年の女性が話している。聞くともなしに聞いていると仕事についての話だった。

 

男性(以下A)仕事の報酬って何だと思う。

女性(以下B)・・・賃金、ですか。

A  正解。でもそれだけ?

B  ウーン

A  これは私の考えなんだけど、仕事の報酬は仕事。次の仕事が与えられるというのが本当の報酬だと思っている。

B  確かに・・・。

A  良い仕事をすれば、次の仕事がやってくる。Bさんがもし誰かに次の仕事を頼むとしたら、どういう人に頼む? いい加減な仕事をした人に次の仕事を頼んだりする?

B  しませんね。

A  じゃあ、良い仕事ってなんだろう?

B  ウーン。

A  その前に。仕事の報酬はまだ他にもあるんじゃないかな。例えば仕事の報酬は今迄知らなかった人との出会い、それが人脈にも発展する。人との出会いは大事だよ。なぜなら仕事は人が運んできてくれるから。

B  同じことかもしれないけど、チャンスもそうかもしれませんね。

A  そうだね。良い仕事をすればチャンスもやってくる。他にないだろうか。

B  仕事の報酬は・・・・・。自己実現もそうかもしれない。

A  私は仕事の中で、仕事は社会的活動の一環でもあるから、その中で何かしらを成し遂げるというのは素晴らしい自己実現になるんじゃないかと思っているんだ。

B  ここでちょっとまとめさせて頂いていいですか。ええと・・・仕事の報酬は賃金、仕事、人との出会い、人脈、チャンス、自己実現・・・。まだ他にもあるかな。

A  ところでBさんはその中で今一番何にモチベーションを感じる?

B  正直なところを言ってもいいですか?

A  いいですよ。

B 私が一番モチベーションを感じるのは、やっぱりまず賃金、2番目が自己実現・・・。

A なぜ賃金が1番目?

B これから英語も含め、いろいろ取りたい資格があるんですよ。そのためにはおカネが必要だし。お洒落もしたい。生活の足しにしたいし、老後の準備もありますから。

A 老後の準備まで? Bさん、私が思ったことを言ってもいいですか。

B いいですよ。

A 私が思ったのはBさんの場合、賃金は手段で、目的は自己実現。

B アッ、そうか。今迄日々の生活の中で「どうやって解決していこうか」ばかり考えることが多かったんです。やっと目的迄考えられるところまで来た、ということかしら。余裕がないと目的まで考えられませんよね。

A それではいよいよもう一つの本題について話そうか。「良い仕事とは」。

B それ、済みませんが次の時の宿題にしていただけません。すぐ回答が出てきそうにないので。

A 了解。これから始まる仕事のためには、「良い仕事とは」についてBさんなりの理解がとても大事になってくる。ちゃんと話そう。

新聞を読みながら聞き耳を立てていたが、どうも気付かれたようだ。二人が立ち上がった。

老年の男性が言っている。もう12時に近いから何か美味しいものを食べよう。話の続きはそこでまた・・・。

 

しぶとい生きかた・安心立命

「失敗していても、負けていても幸せはある」「幸せでなくても喜びはある」「喜びがなくても意味を知ることができる」「絶望と思える時でも自分を知ることができる」

私たちは時に、逆説的な発想をする必要があるのかもしれない。そんな思いを籠めて上記の4つの言葉を挙げてみた。どんな状況にあっても、その状況に対して「イエス」と言うのは簡単ではないが、可能性は常に残されている。

人生は単純ではない。私たちが思っている以上に複雑なのだ。少なくとも人生を諦める権利は私たちの方にはない。それをある人は「しぶとい生き方」と呼んだ。

私たちは未来を輝かしいものとして夢想する。そして過去については否定的思いを抱く傾向がある。しかし、それは喩えていえば、稲を刈った後の切り株を見ていることなのかもしれない。刈り取った稲は脱穀されて倉庫に保管されている。多くの人は過去の人生倉庫にある米を見出だすことができない。それはなぜだろうか。禅問答ではないが、なぜそれができないのか、どうしたら見つけ出すことができるのか、最近考えさせられている。その納得できる回答が分れば、私なりに「安心立命」ができるかもしれない。

 

我が国の国防基本方針について・自力か国連か米国か

現在参議院で安全保障関連法案が審議されている。国会に、政府、与党、そして野党議員にお願いしたいことは感情論に走らずに、冷静かつ本質的な討議をしてほしい、ということである。安保関連法案について考える際に、私は3つのポイントを抑えておきたいと思う。

1.まず日本の国防の基本方針についてどのように考えるか。一朝事があった時、日本は自力のみで、つまり単独で敵に立ち向かっていくのか。あるいは国連に調停を要請し、必要な場合は国連軍の派遣を求めるのか。それとも同盟関係にある米国に軍事的支援を要請するのか。

2.日本を取り巻く安全保障環境がどのようになっているのか、政府はその説明を国民にもっと分かり易く、具体的に納得がいくように説明すべきだろう。強大化している中国軍の拡張主義が恐らく最大のポイントになるのではないか。一方国民も平和は誰かから与えられるものではなく、自分達が地政学的認識と責任を持って守るべきものであることをもっと自覚していくべきだろう。国民の正しい意味での国防意識は十分に抑止力の一要素になるはずだ。

3.中国軍の強大化と反比例する形で米国の世界での影響力が相対的に低下している。かつて世界の軍隊と言われた米国は、財政的負担に苦しみ、日本に肩代わりを求めることを余儀なくされている。

最近の新聞記事で知ったことだが、60年の安保法案では「米国による日本防衛義務が明確化」された。それまでの51年の旧安保法案では防衛義務が明確ではなかった。

今回の安保関連法案は以下のような流れになっているとのことだ。

集団的自衛権は国連憲章が認める自衛権。これを基礎にして抑止力を拡大解釈して、自力防衛と米国の防衛義務を具体的に明確化する。三位一体的自衛ということなのか。

これが安保関連法案の意味だとすれば、併せて明確にしておかなければならないことは侵略性の防止条項だ。

 

フィンランド・鶴瓶の家族に乾杯から

今日の鶴瓶の家族に乾杯はフィンランドが舞台だ。松下奈緒さんと一緒にヘルシンキを訪問して、木の教会、岩の教会を見学し、また街角で会った中年のご夫婦に、家を見せてほしいと頼み訪問した。ご主人がとても恰好いい。ご主人が壁などをDIYで施工しているお洒落な家だ。ご夫婦は仲が良さそうだ。夫婦喧嘩をしたことがないと言う。鶴瓶さん、松下さんと話している時、確かご主人が言った言葉だと記憶しているが、「二人でいることの幸せがさらに味わい深いものになってきています」。心に響く言葉だ。

その後2人はアートの町を訪問する。驚いたことに紙のアートを専門にやっている女性が日本の大津市近郊の和紙の工房で半年ほど和紙のつくり方を学んだとのこと。

最近北欧のデザインが日本でも人気だが、素朴というかシンプルでしかも柔らかく、それでいて親しみが持てるところが日本人の感性に合っているのだろうか。

もしあればだが、北欧のアートのデザイン集のようなものがあったら是非購入したいものだ。自分でアートを創る楽しさを私も実感してみたい。

日本は芸術のパワーをビジネスや政治に生かしきれていないとの指摘がある。北欧から学ぶことは恐らくデザイン、アートだけではないはずだ。

 

妻と一緒に特攻

テレビ朝日で、戦後70年ドラマスペシャル「妻と飛んだ特攻兵」を見た。このドラマはノンフィクション作家豊田正義氏の「妻と飛んだ特攻兵~8.19満洲 最後の特攻」に拠っている。

玉音放送から4日後、11機が草原の飛行場を飛び立ち、満洲に攻め入ってくるソ連軍の戦車隊に特攻していった。満洲にいた邦人を少しでも安全に逃避させるためだった。その中に妻と一緒に特攻した将校がいた。名前は矢藤徹夫、妻の名は矢藤朝子。朝子さんは戦闘機に乗る前に夫から贈られた白いワンピース姿に身を包んで九七式戦闘機の後部座席に座った。死に装束だったのだろう。

草原を飛び立った夫の徹夫が言う。「心残りは君を新婚旅行につれていってあげられなかったことだ」。それにたいして妻の朝子が答える。「これが私達の新婚旅行よ」

大空に舞い上がった11機はソ連軍の戦車隊を認め、次々に旋回し、急降下していく。これは同胞を一人でも多く救うために、自らの意思で行なった特攻だった。

若い夫婦は満洲の地に散っていった。今は戦争のない天国で幸せな生活をしていることだろう。戦争は残酷だ。しかし、と思う。広島電鉄の技術者といい、2人の「凛とした精神性」(豊田氏の言葉)は日本人が世界に誇ることのできる生き方、身の処し方ではないか。

平和の時代に生きる私達は「凛とした無私の精神性」を忘れてはならない。

 

終戦記念日に思う

今年は戦後70年ということで大きな節目の年となった。安倍首相の70年談話、天皇の「深い反省」というお言葉。この70年という年は過去を振り返り、その上でこれからの日本の歩むべき道、未来を描く、まさに2015年は分水嶺的意味を持つ重要な年と言えるだろう。過去を振り返る場合、侵略の結果東南アジア各国を、そして人々に日本軍は多大な危害を与えた。問題は日本政府及び日本軍の「侵略性」がどのように生まれ、歯止めが効かないまでに強化されてしまったのか。その解明がなさればならないと思う。そして外国に謝罪の言葉を述べるだけでなく、日本政府は日本の国民に対しても深い謝罪をする必要があったのではないか。話は飛ぶが、神社の八幡宮は「国家鎮護」の神を祭っているが、そこには一般国民のためという祈りはどの程度込められているのだろうか。

そしてこれからの日本について、東南アジア諸国にとって日本はどのような価値とモデルを提供できるかを考えなければならないだろう。シンガポールの元首相のりー・クアン・ユーの言葉は重い。

 

首相の70年談話を聞いて

安倍首相の談話を聞き、また翌日の新聞で談話の全文を読んで思うことが多々あるが、ここでは2つに絞って私の感想を述べてみたい。

まずこの件だ。

1.「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

この言葉は言い換えれば戦争を行なった当事者達、そして戦中・戦後直ぐに生まれた私たちシニア世代が謝罪の宿命を引き受け、私たちの戦中・戦後世代で謝罪は終りにする、ということになる。加害者と被害者の関係では、被害者に「終りにする決定権」があり、加害者の側にはないのではないか。被害者の側から「もう終りにしましょう」と言って頂いてこそ終りにすることができる。日本は戦後、被害者、つまり日本軍によって侵略された国々に対して、「終りにしましょう」と言ってもらえるような努力をしてきただろうか。

2.「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値をゆるぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて・・・」

日本は危機に直面すると総力戦体制を取るDNAを持っている。どのような組織であれ、多様な考え、異論は排除される可能性がある。私は自由、民主主義について世代を超えて日本人は徹底的に討議すべきではないかと思う。自由とは、民主主義とは・・・歴史と向き合いながら具体的なイメージも含めて内実が、本質が明らかにされる必要がある。

基本的価値は宙に浮かぶ抽象的価値ではなく、具体的なストーリーを持っていなければならないと思うからだ。