半農半X人と江戸人

涼しくなってきたので早寝早起きを再開したが、どうも朝食をとった後、眠気がやってくる。まるで食べ物の中に睡眠導入剤が入っているみたいだ。机に向かい仕事を始めようとするが、眠い。そんな時、ユーチューブで2曲聴いた。1つは杉本まさととKANAさんの「時間よ、止まれ」。もう一つはダンスの映像付きの「大阪ボレロ」。2曲ともテンポがいいし、キレがある。好きな曲だ。少し眠気が飛んだ。窓を開けて外気を入れる。雨空が見える。

半農半Xとしては朝飯前に早朝農作業をしたいのだが、今朝は雨が降ってきたので、残念ながら中止。この埋め合わせはどこでできるかな。夜明けの時は晴れていたのに。大気が不安定だ。

ということでこれからの時間は江戸人を見習って昼過ぎ迄「稼ぎ」の仕事をしよう。いろいろな連絡業務もあるけど、今朝は「エゴマ栽培による耕作放棄地活用」のビジネスモデルのデザインに取り組む。完成まで2週間はかかるだろう。2週間かけてプロジェクトのプロトタイピングをつくる。その上で関係者と打ち合わせに入る。

午後は出かけて外国人ジャーナリストからの屋上菜園についての取材依頼の段取り。取材先への説明と取材許可を取る。これは「務め」ということになるだろう。

それでは遊び、娯楽は?人生をもっと楽しまなくっちゃと思うが、江戸人のようにおカネをかけずに楽しめる娯楽を持ちたいものだ。

今日は「務め」の後、谷根千(谷中、根岸、千駄木)辺りを徘徊しようか。俳句、時代小説のネタ探しを兼ねて。

 

善悪の基準

善悪の基準という問題は古くて新しい問題である。旧約聖書、創世記では神はアダムとエバにこのように言った。

「しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

善悪を知ることは善悪を支配することにつながっていく。善悪に対して絶対的基準を持ち、善悪を支配している神の領域に踏込むことを神は禁じたのだろう。しかし人間は善悪を判断することを求めた。それは自然な感情だったのかもしれない。しかし、人間の問題は神のように絶対的基準を持つことができないにもかかわらず、人間の相対的基準を絶対化したいという衝動を持っているところにある。これが争いの原因ともなっている。

また善悪の基準も時代とともに変っていく。勿論、時代が変っても、人を殺してはならない、盗んではならない、偽りを言ってはならない・・・というような普遍的な基準はある。動物の世界では群れの中で子殺しをすることがある。ライオンとかチンパンジーの雄は自分の子をつくるために他の群れの雄の子を殺す。動物の世界に善悪の基準はあるのだろうか。ないのだろうか。

人間は善悪の判断を放棄することはできない。しかし、自分の判断と行動が善であるか悪であるか、いわば白黒のように判別することは実際には難しいのではないか。なぜなら人間は最終的には自分がしていることの全体を把握しているわけではないからだ。白だと思っても黒が混ざっていたり、灰色の部分もある。その結果を引き受けなければならない。

それが犯した罪に対する罰なのかもしれない。

損得の基準ははっきりしているが、善悪の基準はそうはいかない。

それにしても善悪を科学的に解明することはできるのだろうか。それができれば善悪を科学的に支配することもできるはずだ。

 

東京の再開発に思う

今日三菱地所が東京駅近辺で日本一高いビルを建てることを発表した。現在日本ビルがあるところだ。一方名門ホテルのホテルオークラが建て替えのため本館の営業を、今日を持って終了した。東京都内のビルが新陳代謝の時期を迎えていると同時に、一等地の高度利用も求められているのだろう。高度利用と言えば、超高層の建物の建設計画が山の手線周辺に集中しているが、疑問というか不安を感じざるを得ない。

三菱地所は日本一高いビルを東京のランドマークにしたいと言っているが、超高層イコールランドマーク、という時代はもう終ったのではないか。例えば横浜のランドマークタワーはランドマークとしての存在価値を発揮しているだろうか。

二番目は国際都市として現在の東京は、外国人にとって、そのための機能と魅力を十分に持っているだろうか。それを高めるためのグランドデザインが必要と思われるが、果たして実効性のあるデザインが検討されているのか。それも分からない。以前東京を冷やすために海風を東京の内部まで引っ張ってくる風の道プロジェクトというのがあったが、どうなっているのだろうか。また東京直下型地震がかなりの確率で東京と襲うと予測されている。超高層ビルの周辺で、そのための安全対策、防災対策は十分に取られているだろうか。

今後東京23区内では1世帯当りの人数が1人台になっていくと予想されている。東京は住む町ではなく、仕事をする町、出かけていく町になっていくのではないか。東京の「中央区化」だ。夜は家の灯りも人影も少ない町になる。

人口減の時代、超高齢化の時代、日本がそのような時代にあって、どのように安全で、財政的にも健全で、幸福な社会を築いていくか、その国家モデルを創ることが求められている。同じような道を辿っている東南アジア諸国が先を行く日本の歩みに重大な関心を寄せている。それが実現できれば東南アジアを中心として外国人も多くやってくるだろう。高層ビルというハードだけでなく、町全体のシステムの心地良さが求められている。

個人的には江戸時代、外国人が江戸を訪れ、清潔で緑溢れる町に驚嘆したことを想起したい。現代において外国人が驚嘆する町づくりができるだろうか。そのために私にできることは何か。私達にできることは何?

 

江戸時代的働き方を現代に活かす 

明治初期に現在の暦、グレゴリウス暦が日本に入ってくるまで、日本人はそれこそ年中無休で働いていたとのことだ。恵まれた立場にいる人でも休日をとれたのは1日と15日、月2回だった。働く時間は士農工商によって違っていただろうが、当時は夜明けと共に活動を開始して、日没と共に一日の活動を終えるという、自然のリズムに沿って一日を過ごしていたと思われる。

夜はアンドンを使って部屋を明るくしたが、使う灯油はエゴマ油。高価なものなので、長時間アンドンを灯しておく訳にはいかない。節約第一だ。

さて当時の働きぶりを見るために、家具直し職人の熊五郎の一日を追ってみよう。

夜明けと共に起床。あちらこちらで雄鶏が鳴いている。井戸で顔を洗い、口を漱ぐ。

衣服を改めてご近所回りをする。

「なんか困っていることはありませんか」一軒一軒歩く。

「ちょうど良かった、あそこから雨漏りがしてね。夕べ雨が降ってきた時には家の隅に逃げていたよ」一人暮しのとめ婆さんが顔を出して言う。

熊五郎は家に上がりこんで雨漏りの個所を確かめてから屋根に上がる。桧皮がずれている。

それを直してから、降りてきて、

「もう大丈夫だ、直しといたよ」熊五郎はとめ婆さんが出した茶を受け取り、一息入れる。

「婆さん、身体の具合はどうだい」などど聞いている。

「長尻をしてはいけねえや」と腰を上げ、又一軒一軒聞いて回る。

半刻後、戻ってきて女房のお順と一緒に朝飯。菜っ葉飯にがんもどきがおかずだ。残った飯に味噌汁の残りをかけてかき込む。

「おまえさん、今日の段取りはどうなっているの」

「昼に一旦帰ってきてから寄り合いに出かける。子ども達のための和算塾を町内でつくることになってな、その打ち合わせだ」

熊五郎は近くの作業所で仲間と二人でみっちり、持ち込まれた家具直しに励む。手間賃を二人で分ける。

「これでなんとか明日のおまんまも食える」

昼は家に帰ってきてウドンとかき揚げの昼食。ゴロッとなって腕枕で昼寝。

お順に起こされて急いで寄り合いにかけつける。寄り合いは一日置きだ。

熊五郎は落語と人形浄瑠璃が好きだ。明日は仕事の後、落語を聞きに行き、その後居酒屋で仲間の銀次と一杯やることにしている。

 

江戸時代は年中無休、稼ぎの時間は朝から昼迄。皆「稼ぎ」だけではなく「務め」も当り前のこととしてやっていた。遊びにも手を抜かない。

貧乏だが、回りも皆貧乏だ。気に病むことはない。今日を精一杯、楽しく生きてやろう。

熊五郎には来年、子が生まれる。

地図を見ながら思うこと

何もしたくない時、私は地図を見る。世界地図、そして日本地図。世界地図を見ながら今迄の70年の人生で歩いた世界の国々を思い出の中で訪ねる。青年時代に訪れた国々。

サラリーマンになって出張した国々。そして駐在したマレーシア。まだ行ったことのない国々を地図の上で見て、想いを馳せる。次は日本地図。友人が住んでいる都市を地図の上で訪ねる。今頃どうしているかな。暫く思い出に沈む。

人の人生とは地図の上を実際に歩くことかもしれない。ある人は多くの国々を訪問し、また日本国内もあちらこちらと数多く訪ねていることだろう。

そんなことを思っているうちに、気がついたことがある。私は自分の中にいくつかの街を持っている、と。それが自分が子どもの頃の街だったり、行ったことのない江戸時代の街並みだったり。本の地図は空間的だが、私の心の中の地図は時間的でもある。

地図を見た後、私は眠りにつく。今晩はリスボンの酒場を歩きながらファドを聴いているだろうか。

 

NPOについての誤解

今日ある外国人と雑談していた時、NPOが話題になった。NPOはボランティアの団体で活動する人達はミッションでやっているはずだから無報酬ではないか、と彼女は言う。私は活動を続けていくためにはNPOでも報酬を払うべきと答えた。彼女は納得していないようだった。恐らくそのようなNPOに自分の国で関係していたのかもしれない。

さて以下は私の理解だが、NPOの活動を続け、発展させていくためには、当然収入が必要で、それを寄付、補助金だけに頼っていてはいずれジリ貧になる可能性がある。そのNPOに相応しい事業を行なって収入を挙げることが求められる。

NPOは英語では利益を追求しない団体となっているが、収入を追及しないと言っているわけではない。簡単に言えば、株式会社などは利益追求のための組織であり、仕事の報酬はおカネということになる。一方NPOとか一般社団法人の場合は仕事の報酬は仕事であり、活動の発展ということになる。私益の獲得よりも公益、共益の実現が目標だ。適切な収入を上げていくためにはミッションと同時に高い経営力も求められる。

 

平家物語の夕べ

原典「平家物語」を聴く会主催の第28回「平家物語の夕べ」が今日、澁谷区文化総合センター大和田の伝承ホールで開催された。今回の夕べでは平重盛を取り上げている。演目は『小松大臣・平重盛』。教訓状では語りを真行寺君枝さんがつとめた。医師問答は歌舞伎役者の片岡孝太郎さん、灯炉之沙汰、金渡は麻生花帆さんがそれぞれつとめた。改めて原典を正確に記憶し、それを語り、演じるとは大変なことだな、と感じ入った次第だ。マイクなしで客席の後ろ迄声を届かせる技術はどのように習得するのだろうか。

さて重盛は清盛の長男で温厚篤実かつ信心深い人物だった。横暴と奢りを極める父清盛を諌め、時の天皇に忠節を尽くす存在だが、最後は自分の命と引き換えに父重盛の暴挙を止めて欲しいと熊野権現に祈る。その願いが聞きいれられたのか重盛は発病して42歳の若さで死ぬ。灯炉之沙汰では重盛の魂が舞台の上で明滅するような感動を覚えた。平家物語ではやはり壇ノ浦の戦いが有名だが、重盛のような存在がいたことも記憶に留めておきたい。

私自身古典芸能には詳しくなく、また鑑賞力も乏しいものだが、時には足を運び、古典芸能の世界に身を置いてみたい。そんな年齢にもなっている。

 

言葉の怖さ

言葉の怖さを最近思い知らされた。ある仲の良いご夫婦で、一緒に仕事をしている。ところがある日、ご主人の言葉で痛く傷つけられ、「やっていられるか」という気持ちになったとのことだ。詳しいことは分からないが、ご主人もそういうつもりで言ったのではないだろうが、結果として奥さんの気持ちをいたく傷つけてしまった。難しいのは「そういうつもりで言ったのではない」ことが相手の心の中でそういうことになってしまう、というところだ。夫婦の間のことなので、いずれ謝り、話合いの時がくるだろうが、仕事の関係、友人関係の場合は、それっきり、ということになってしまうこともあるのではないか。

会話の時、自分が言った言葉に対する相手の表情を丁寧に、注意深く見る、あるいは読むことが大事になってくる。やはり会話は「顔と顔を合わせて」だ。メールとか携帯電話では相手の表情は分からない。

 

ドイツ帝国再興

同じ第二次世界大戦の敗戦国でありながらドイツと日本の過去70年間の歩みを振り返ってみると、なぜここまでの違いあるいは差が生まれたのかと思わざるを得ない。歴史家でもなく、経済学の専門家でもない私がその理由を考察するには余りにも浅学菲才で、表面的なことしか言えないが、最近読んだ2つの新聞記事(日本経済新聞 8月22日 大機小機、 8月24日 核心 岐路に立つ多文化主義)を手がかりの感想めいたことを述べてみたい。

1.大機小機ではドイツに倣い軍事力によらず経済力を伸ばすことこそ、日本の生きる道であることを主張している。「経済の相互依存こそが最大の抑止力である」

2.多文化主義では「パン・ヨーロッパ」で欧州の統合構想を初めて世に問うたリヒヤルト・クーデンホーフ・カレルギー伯の精神に、欧州統合の原点を見ている。

 

以上の記事を読んだ後、しばし考え込んだ。1については果たして経済力なのか、という疑問である。それだけなのか、文化力もあるのではないか、ということだった。

2については東南アジアを統合するような構想、ビジョンが東南アジア全体で共有されているだろうか。TPP、RCEP(東アジア地域包括経済連携)を支える統合構想は何を基盤に生まれ、今後どのように発展していくのか。注目していきたい。特に注目していきたいのはこれから大きな市場拡大が期待されるRCEPだ。日本の役割はイノベーション力ではないか。

フランスの人口学者、E.トッドは経済力で突出したドイツを「ドイツ帝国」と最近呼んでいる。帝国? 気になる言葉だ。

日本はこの点ではドイツと違った道を歩むべきだろう。

 

時間管理は思考・行動管理

時間の管理はむずかしい。最近つくづくそう思う。アメリカのベンジャミン・フランクリンは「時はカネなり」と言った。企業に勤務する人達にとっては勤務時間の生産性、具体的成果がそのまま利益に直結する。最近読んだ新聞記事では、時間管理の達人への道(上)のコツの一つとして「空き」見つけ有効活用、が載っていた。空き時間があらかじめ分れば他の予定も加えることができる。時間管理は行動管理で、それぞれの行動にどれだけ価値があるか、そのためにどれだけの時間がかかっているか知ることが必要との指摘もある。

さらに習慣化しているルーティンワークの中に無駄な時間がないか、そのチェックと改善も時間管理に役立つとのことだ。

私は空き時間には気がついたこと、アイデアのメモをとるようにしている。それでいつでもメモ用紙を持ち歩いている。行動管理の場合の価値については何を基準に価値判断をしたら良いのか、考えてみたい。短期的収入の拡大を基準にする、というがまず頭に浮かぶがそれだけでいいのか。ルーティンワークについては確かに指摘の通りだ。私の場合、企画書づくり、説明資料づくりに時間がかかりすぎる。

それと読書の仕方を変えた。最近心がけているのは1冊を30分で読むことを目標にしている。時間が無いと言って全く読まず、積読よりも飛ばし読みでもいい、30分でも読めばなんとなくイメージ、キーワードがつかめる。

昨日「シナリオ 虎の巻」268Pをそのやり方で読んだ。

 

ところで、と考える。確かに「時はカネなり」も分るが半農半Xの身になると「時は命なり」という気持ちが強くなってくる。ゆったりと身の丈のカネで、豊か過ぎず、貧し過ぎない残りの人生を送りたいと思ったりもする。そのためにも自然の中に時々身を置きたい。

金持ちの花も貧しい花もない。それぞれがそれぞれの美しさで花を咲かせている。木々もそうだ。石も。