二人で話す場合と三人で話す場合

二人で話す時と三人で話す時は心構えを変える必要がありそうだ。二人で話す時は相手のリズム、ペースに合わせて話をすれば良いのだが、三人の場合は事情が違ってくる。つまり3人が同時に話すことができないので、A とBが話している間、Cは二人の会話を聞いていなければならない。Cは話を聞きながら、自分の言いたいことをAとBとの会話の流れを見ながら、タイミングを選んで、Aと話したり、Bと話したりする。三人の場合、話の流れというか本筋を三人が共有している必要があるが、通常の日常会話の場合、誰が話の主導権を取るか、という問題が出てくる。つまりどこかで競争意識も生まれてくる。三人が均等に話すチャンスを分け合うことができれば良いのだが、現実問題としてそれができず、AとBとの会話が中心になり、Cは聞き手という役割分担ができることもある。雑談的な立ち話などであれば、そう問題にはならないだろうが、ビジネスミーティングなどの場合はA、B、Cの誰かが話しながら調整する必要が出てくるのではないか。また会話の主導権を無意識の内に取ろうとして発言内容が大袈裟になる場合もありそうだ。普段何気なく話しているが、三人で会話をする時に上記の問題を想起することによって、楽しい三人の会話にしてみたらどうだろうか。

 

老人になることが出来る人、出来ない人

齢をとれば自動的に老人になるのだろうか。私の実感としては齢をとったが老人になったという自覚はあまりない。老人と言えば、身近では私の父とか家内の父を思い出す。二人とも老人としての風格があったように思う。私の父は大正5年生まれ、家内の父は明治44年生まれ。二人とも軍国主義の教育を受け、先の大戦を経験している。大人になるための通過儀礼も受けてきたことだろう。それに比べ、私には風格と言えるようなものはないと思っている。おかしな言い方になるが、齢だけとった青年、という感じだ。生涯現役と言えば聞こえはいいかもしれないが、言い換えればいまだ自分の人生、仕事を確立できていない。世間的に言えば老人になることのできる人と成れない人と2種類に分れるかもしれない。私自身風格のある老人になりたいとあまり思わない(なれない、と思っているせいもあるが)。それでは成れない「齢だけとった青年」としてどのようにこれから生きて、そして仕事をしていったら良いのか、最後のあがきのようにもなるが、考えなければ、と思う今日この頃だ。

 

声は不思議

最近はテレビで落語を聞く(見る?)ことが多くなったが、昔はラジオでよく落語を聞いたものだ。ラジオだから所作は見えず、声しか聞こえてこない。好きな落語家と言えば、先代の金馬と可楽だった。話の内容は横に措いて、私が惹かれたのは2人の声の<良さ>だった。金馬の情愛が伝わってくるような声、可楽の粋な響きの良い声。2人ともまさに名人だった。

私の父は昔私にこう言って注意した。「声ほど正直なものはない。だから電話で話す時は

元気に話すこと。元気が無い声で話すと相手はこの人と取引して大丈夫かなと思う」。確かに声には感情が出る。また「間」をつくることが難しい。

私は人と話をする時、電話が一番苦手だ。緊張している自分に気が付くからだ。

電話をかけるとある会社の秘書の女性は会社名を名乗る前に「阿部さんですね」と言ったりする。声とは単なる声帯の振動のはずなのだが、そこまでの表情、特徴がどのようにして声に表れてくるのだろうか。声帯と気持ち、精神はどのようにつながっているのだろうか。また齢をとってくると声帯も齢をとり、かすれ声、しゃがれた声になるが、齢をとっても艶のある声、深み、渋みのある声を維持している人もいる。特に古典芸能の世界に生きる人達はそうだ。

恋は不思議、・・・ではなく声は不思議だ。

 

真実とはどのようにして見つけるか?

最近分らなくなってきているのが、真実とは何かということである。真実であることを確証するものは何か、真実に到達するためにはどうしたらいいのか。具体的問題に直面した時、その難しさを感じる。

テレビでミステリー関係のドラマが数多く放映されている。断片的な事実を積み上げて、推理し、また科学的に分析して、真実に肉薄していく。ミステリーの場合は真実の発見が同時に真犯人の特定となり、動機の解明となる。ミステリーを見ていて思わされることは、それが犯罪を扱うドラマのキレイな終り方なのだろうが、「それがどんなに厳しい結果であろうとも真実が救いになる」というメッセージだ。このことについてはさらにキチンと考察してみたいと思う。

テレビのミステリーからヒントを貰いつつも、自分をとり巻くいろいろの出来事の真実とは一体何なのだろうか。真実を知るためには物事を全体的に見ること、深いところまで洞察すること、短期的だけではなく長期的視野で考えること。本からまた人生の先輩から教わってきた。それらの原則を弁えつつ、自分の人間関係、自分の仕事、自分の人生、さらには日本の農業問題、日本と中国との関係、現代世界の格差・・・など、本当のところは何だろう、何が真実なのか。時々立ち止まって考えることがある。自分の思考が浅く、断片的であることは分っているが、やはり人間として「真実を知りたい」という衝動がどこからともなく湧き上がってくる。それにしても真実を知れば安心立命できるのだろうか。

ただ真実を知る上で自分の思想的傾向、性格が持っている感情的なバイアス(偏り)がいつも障碍になっているような気がしてならない。

真実には事実だけではなく、人間の側の感情、思いも加味されているのではないか。とすると真実は客観と主観の間で成立するものなのだろうか。

 

夜の散歩

昔はよく散歩をした。家の回りを東西南北に分けて、それぞれのルートを大よそ決めて歩いた。ある日は東に向かい、志木市の中を流れている新河岸川の土手道を歩いて志木街道を志木駅の方向に歩き、家に戻ってくるルート。ある日は北に向かい、隣駅の柳瀬川駅迄歩き、東上線の踏み切りを渡って志木駅迄戻ってくるルート。散歩をしていると街の変化が分る。空き地にマンションが建ったり、農地が駐車場になったり、住宅街の中にお洒落なイタリアンレストランが開店したり・・・。散歩しながらアイデアを練ることもあった。

昔会社経営が大変な時は眠れぬまま、早朝気分転換を兼ねて散歩したこともあった。辛い思い出だ。

さて最近は昔ほど散歩していないことに気がついた。農作業で十分身体を使っているので運動量としては十分だろうという気持ちもあった。また最近は早朝から午前中一杯仕事をするので、早朝散歩の時間が取れなくなっていた。

ところが、志木市の健康運動の一環として万歩計が貸与され、使えるようになった。定期健康診断の結果、メタボの予備軍であることが分った。激しい運動より歩く方が安全だ。

ということで、夕食後歩くようにしている。外出した時はある程度歩いているので、上積み、という感じで歩くが、在宅の日はデスクワークが多いので、1時間程度は歩くことになる。万歩計がこのようなモチベーションを与えてくれるとは思わなかった。毎日目標1万歩、遅ればせながら「歩け、歩け運動」に勤しんでいる。

 

時代と向き合って生きる・日本画家堀文子さんの生き方に学ぶ

NHKのこころの時代で日本画家の堀文子さんが話しているのを聞いて、時代と向き合って生きるとはどういうことか、大切なことを教えられたように感じた。

堀文子さんは今年97歳、現在でも大磯で画筆をとっている。矍鑠とされている。

時代と向き合って生きるとは・・・気付かされたことを箇条書きすると、

1.時代に流されず、自分自身の視点で物事を見る。これは言うほど簡単なことではない

2.「天皇陛下のために画を描く」ことを強いられた時、「冗談じゃない」と思ったという反骨心。当時はそのような当り前のことが言えなかった時代だったはずだ。

3.超俗になるのではなく、大衆の中に入っていく。堀さんは画家の大家になって作品を残すより、雑誌など大衆が手に取るものに挿絵などを描いて「稼ぎまくった」とのことだ。大衆こそある意味では時代の時流を造っている。

4.堀さんは世界放浪の旅をしたり、イタリアにアトリエを構えたり、アマゾン川、マヤ遺跡・インカ遺跡に行ったり、ヒマラヤ山脈を走破したり、とにかく行動的だ。旅を通じて日本だけではなく、世界というグローバルな舞台で時代に向き合ったのではないか。

 

マンションの基礎問題と責任の所在

三井不動産レジデンシャルのマンション傾斜問題について思うのは、ひょっとすると東日本大震災がこの問題を顕在化させたのではないか、ということである。今回の杭打ち工法を見ると、支持層に杭を到達させ、食い込ませ、地盤と一体化するためにコンクリートを流し込んで固める、という工法であり、素人目に見てもしっかりした工法のように思えるが、問題は工法よりもそれを施工した人間の方にあるようだ。つまりヒューマンエラーだ。

それではなぜヒューマンエラーが起ったのか。もっと言うならば、何がヒューマンエラーを起こさせたのか、それが問題だ。旭化成建材で今回の問題を起こした担当者に対して徹底的な追及が現在進んでいると思われるが、個人の過失という結論には矮小化することができない問題だ。もしそのようなことになったらまたどこかで同じ問題が起る。

当り前のことだが、建物で一番重要なのは、基礎だ。以前私が関係した建築案件で、地盤が悪いところに建物を建てることになった。実際に施工する段階になって当初計画より、長い杭を、また杭の本数も増やして、基礎をつくった。一方隣に建ったビルは途中で解体され、基礎からやり直しとなった。費用もかかり、時間もかかり、大変な損失が発生したのではないか。基礎の重要性に改めて気付かされたことだった。

さて基礎について考えていると、人生にも、事業にも基礎と言えるようなものがあるのではないかとの連想が働いた。人生、事業の基礎、支持層とは?

 

現代の忍者・私の知人Wさんの仕事振り

仕事の関係で現代の忍者・Wさんと知り合った。名刺に忍者のマークがある。Wさんの仕事はメディア関係のプロデューサーとのことで、それこそ神出鬼没で仕事をしているようだ。忍者と言えば、子供の頃は猿飛佐助とか霧隠才蔵が人気者だった。ただ忍者について私が「恐らくこれが実態だったんだろうな」と思ったのは池波正太郎の「真田太平記」の中で描かれていた、真田方の女忍者お江と徳川方の猫田与助の仕事振りからだった。超人的体力、五感。情報収集能力と分析力。戦闘能力。仲間との連係力。表に出ず、裏方に徹する自己犠牲力。それにしてもなぜこのような現代風に言えば戦闘力を持った情報部隊が日本に生まれたのだろうか。戦国時代の中国地方の覇者毛利元就は調略を得意にしたというから、忍者的存在が既にいたのかもしれないが、本格的に忍者が養成され、活躍したのは織豊時代あたりからだったのだろうか。徳川政権時代には忍者の頭の服部半蔵が家康に仕えたとのことだ。皇居の半蔵門の傍を通る時、半蔵のことを思い出す時がある。

現代の忍者・Wさんには仲間の忍者がいる。Wさんによれば忍者は外国人に人気があるらしい。忍者の仕事を外国人にどのように説明しているのだろうか。

 

阿久 悠さんの「あんでぱんだん」

阿久悠・作詞家憲法全十五箇条を時折読み返している。時代に正対し、時代の飢餓感のストライクゾーンを見つめていた阿久さんの、憲法3条と4条を繰り返し読みながら、都市型の生活と、歌的世界と歌的人間像との決別・・・というところを考えていた。具体的には女性歌手KANAさんの最近の歌「泣かせてヨコハマ」「永遠の月」と川野夏美さんの歌「女の空港」「悲別」を手がかりにしながらこの「決別」とは一体何を意味するのか、考えている。この4曲に共通しているテーマは「別れ」だ。直観的に感じることだが、演歌には「別れ」を歌ったものが多い。数え上げればかなりの数になるのではないだろうか。それも女性の側から「別れ」を歌ったものが圧倒的に多い。人は出会い、人は別れていく・・・。出会いには喜びがあるが、別れは寂しく、辛い。特に男女の別れはそうだ。上記に挙げた4曲を聴いていて少し微妙な表現になるが、相手の人との別れは受け入れても、相手の人と過ごした思い出とは別れない、という心情を感じる。人と別れることは仕方ないにしても、一緒に過ごした思い出・経験とはそう簡単に別れることができない。それは既に自分の人生の一部になってしまっている。特にそれを感じさせるのはKANAさんの「永遠の月」と川野夏美さんの「悲別」だ。

石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」では女性は相手の人と別れることを具体的テーマとしている。「さよならあなた、私は帰ります」」。一方KANAさんと川野さんの歌は相手の人と過ごした思い出・経験を対象化して、そのまま受け入れようとしている。そこに私は阿久さんが言われるような歌的世界と歌的人間像との決別を感じる。愛する人を追いかけず、うらみ、つらみを言わず、どうせともしょせんとも言わない情念的にも自立した女性の姿が見えるようだ。このような女性像は桂銀淑の「すずめの涙」あたりから始まっているのかもしれない。ただ対極にある男性のイメージが漠然としているのが気になる。

 

パリ在住のW画伯のこと

私の知人W画伯はパリに在住してから30年近くなる。今から10年前の2月末、フランスの農業祭を視察するためにパリを訪問した時、紹介してくださる方があって、W画伯と初めてお会いした。W画伯はフランス哲学の研究者・森有正の思想に共鳴している方だった。私も森有正の思想は自分の人生の導きの糸と思っていたので、暫く話しているうちに意気投合していった。そこで誠に勝手なお願いをして、森がパリに来てから住んだアパルトマンを最初から教えてもらった。二人でパリ市内を歩いた。最後はノートルダムが対岸に見えるセーヌ川のほとりのアパルトマン。そこで森は地上の人生を終えた。歩きながらW画伯と森の著作について話合った。というよりも自分がどのように理解しているかを伝え合った。同じような理解に達していることを知るとお互い少年のように喜んだ。

森有正は日本では既に忘れられた人かもしれない。私も森有正について、その著作について話合う友を日本では持っていない。

私には一人で行ってみたいところがあった。W画伯に相談して場所を教えてもらった。それは森がしばしば訪れたマビオン通りだ。日本人で製本を生業としている老人が住んでいた場所。森は地下1階にある老人の元をしばしば訪れていたとのことだ。マビオン通りのその場所と思しきところはレストランに変わっていた。

W画伯は現在日本に個展のために2週間程帰国している。個展が京都で開催されているのでお会いすることはできないが、送られたて個展案内には「=開花してゆく《時》を見つめて=」とある。案内のカードに印刷されている画のタイトルは「薔薇の咲く家」だ。彼の描く画の中で、陽の光は木々と、花々と触れ合いながら、地上に穏やかな光と影を落としていく。時が開くとは自分に還って行く、と同義かもしれない。

できれば来年でも、またパリの街を歩きながら、久しぶりにW画伯と人生の越し方行く末について話合いたいものだ。