屋上菜園物語Ⅱ 第28話「束の間の人生」

西村晴樹は夕暮れの街をいつものように散歩している。夕方の風は気持ちがいい。晴夫にはちょっと変わった習慣があるそれは晴れた日にはできるだけ夕陽を見るということだ。夕方、川辺を散歩している時は、立ち止まって、しばらく夕焼けに染まった空を眺める。自分の身体も夕焼けに染まっていく。それがなんとも言えない。そしてもう一つは外出途中で時間のある時には、駅を降りて30分ほど駅前の街中を散歩する。いつもは電車の窓から見ている風景の中に自分を置いてみる。今日は私鉄のT駅で降りた。郊外の駅で畑もところどころ残っている。初めて降りる駅だ。改札口を抜けると駅前に商店街がある。シャッターを下ろしている店が目立つ。晴樹は商店街を通り抜けて住宅街の中に入っていった。人通りは殆どない。静かな街だ。中規模のマンションが立ち並んでいる。そのような街を歩きながら、晴夫は心のどこかで子供時代の住宅街を探しているような気持ちになる。晴樹の子供時代は住宅街の通路でよく遊んだものだ。高齢になるにつれ、どこかで子供時代のことを思い出すことがなぜか多くなってきている。

最近仕事で行く、墨田区、台東区にはうれしいことに古い町並みが残っているが、人影は殆ど見られない。家々の古い窓も閉じられたままだ。それでも家があるということは人々の暮らしがそこにあるということだ。長い人生を歩んできた高齢者の暮らしに、しばし思いを馳せる。それぞれの人生・・・。そして町並みもどこか老いていることが晴樹の胸を寂しくさせる。

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晴樹は日本の高度成長期に関西の大学を卒業して大手電機会社に就職した。学部は農学部だった。晴樹は大学3年の時、ゼミで研究課題としてフランスの農業思想史に取り組むことになった。ゼミの指導教授H教授はヨーロッパの社会思想史の研究者だった。晴樹はページ数100枚の卒業論文を書き上げた。東ヨーロッパの思想家の著作「歴史と階級意識」についての研究論文だった。「歴史と階級意識」はH教授が翻訳していた。

就職した大手電機会社での配属先は大船の工場。電子計算機の部品を製造していた。工場近くの社宅を毎朝7時半に出て、工場には8時前に入った。当時、日本経済は高度成長期に入っていた。毎晩のように残業があった。工場の社員食堂で夕食を取って社宅に帰るのは毎晩10時過ぎ。社宅では風呂に入り、後は寝るだけだった。仕事で疲れ切っていた。

文字通り、資本主義経済の労働過程の中で毎日を生きていた。

28歳になった時、親の紹介で見合いをし、結婚した。結婚を機に社宅を出て町田市の2階建てアパートに引っ越した。アパートは丘の上にあり、晴樹夫婦の部屋は西側に面した2階だった。丘の下に広がる緑の中に団地が見えた。妻は今迄やっていた仕事は辞めて専業主婦になった。晴樹が帰宅するまで時間を持て余していたことだろう。近所に親しい知人達が徐々に増えていったので、お茶を飲んだり、料理を一緒に作ったりしていた。遅い夕食だった。妻の君江は黙って夕食を食べている夫に声をかけるようにしていた。「今日は忙しかったの?」。晴樹は遅く迄待っていてくれた妻に感謝の気持ちを伝えたいと思っていたが、出てきたのは生返事だった。「忙しかった。今日も見積関係のテレックスが多かった。疲れたから食事の後は、風呂に入って寝る」

晴樹は食事をしながらも今日海外支店に送った見積りにどこか間違いがあったかもしれないと食事をしながら、上の空のところがあった。君江はそんな夫の仕事を引きずる性格が分かっていたので、それ以上、夫に声は聞かずに「お風呂はできているわよ」と伝えた。そんな新婚生活が2年間続いた。

2年後晴樹が池袋の本社勤務に変わったのを機に町田のアパートを出て、埼玉県の川越市の駅から10分ほどのところに土地を買い、そこに家を建てて引っ越すことになった。親から多額の借金をした。それから40年、結局川越に住み続けることとなった。

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晴樹は大手電機会社を辞めて、新聞社に転職した。キッカケは大手百貨店主催の懸賞論文に応募し、優勝はできなかったが、奨励賞を受賞したことだった。タイトルは「これからの消費の特徴」だった。購買層の多様化を予見した論文だった。大手百貨店のオーナーからウチに来ないかと声を掛けられたが、それは断り、新聞社を選んだ。事実と向き合い、自分らしい視点から記事を書きたいという気持ちが強かったからだ。

晴樹は新聞記者としてそれから30年近く仕事をしてきたが、60歳になったのを機にフリーのライターとして活動するようになった。収入は安定していないが、毎月の生活と活動ができるだけの収入は確保できた。

晴樹は学生時代、大学のH教授の紹介で東京の野中一郎と知り合った。野中もH教授が翻訳した「歴史と階級意識」を卒業論文にして取り組んでいた。

学生時代は二人ともアルバイトで稼いで、お互い東京と京都を行き来して、会っていたが、それぞれ就職してからはいつの間にか行き来が長いこと途絶えていた。野中は大学卒業後、鉄鋼関係の商社に就職した。晴樹も一郎も高度成長期の真っただ中で、仕事中心の毎日だった。いつの間にか年賀状のみの関係になっていた。

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野中一郎は15年間務めた鉄鋼商社を辞めて父親の会社を継いだが、結局会社をたたむことになった。自主廃業だった。倒産の恐怖におびえながらの1年半、自主廃業が終了した時、一郎は抜け殻のようになっていた。幸い借金を抱えることはなかったが、毎月の収入はなくなっていた。それでも貯金が少しあったので、妻の幸枝の了解をもらって旅に出るようになった。気分転換を図るためだった。さらに言うなら生きる力を取り戻すためであった。幸枝は抜け殻のような夫が間がさして自殺するかもしれないと思い、夫が旅に出ることには当初は大反対だったが、それぞれの地に友人、知人がいる場所に旅行に行くことは渋々認めた。群馬県みなかみ町、福井県鯖江市、滋賀県近江八幡市、京都府宮津市、島根県川本町、徳島県徳島市。訪問した地では友人、知人と旧交を温めることができた。そして今迄都会暮らしをしてきたが、地方の良さも改めて実感する機会になった。旅行を通して農村地帯の風景に接し、また人々との再会を通じて、一郎は徐々に元気を取り戻していった。それにつけても自分はこれから何をしていったらいいのか、自分の心に問い続ける日々が続いていた。まだ60歳前半、自分がこれから本当にやりたい仕事は何なのか。生涯をかけてできる仕事はあるのか。

野中一郎は1年間の旅を終えた。自分がこれから何をしたらいいのか、いよいよ決めなければならない。自分の中を見ても依然としてガランドウで何もなかった。企業人としてはずっと営業の仕事をしてきたので、仲間と一緒に営業サポート倶楽部をつくって、関わりのある小企業の営業活動を手伝ったりしたが、長続きはしなかった。自分が本当にやりたい仕事ではなかった。自分は一体何をしたらいいのか、自問する日々が続いた。特に大きな病気にならなければあと20年は生きられる。やりがいのある仕事あるいは仕事でなくてもライフワークが見つからなければただ生きているというのは苦痛の日々になる可能性がある。一郎はそれを恐れていた。

一郎は自己肯定感の少ない人生を生きてきた。どこかでいつも自分は失敗しているのではないか、ミスを犯しているのではないかという不安があった。いつの間にかそれが一郎の性格を消極的なものにしたようだ。心配性でもあった。

 

一郎は気分転換のため家の近くの川の土手道を自転車で走ることがよくある。川風が一郎の鬱屈した気分を吹き流してくれるような気がするからだ。今日も家を夕方出て川の土手道を走った。自分の心の中の空虚感を感じながら自転車のペダルを漕いでいた。そんな気持ちでいる時、自分が長く住んでいる街なのに、いまたまたま初めて自分が通りかかったような変な違和感に襲われた。街の光景の中で浮き上がっている自分の姿が見えるかのようだ。どうしても溶け込むことができない。自分が今迄生活してきた地元の街なのに、なぜか親近感が持てない。1時間ほどサイクリングをして、夕焼けを見ながら帰宅した。

 

その晩、夕食後、一郎は改めて自分の人生と向き合う時間をとった。そして自分に向かって、さらには自分をこのように生かしている大いなる存在に向かって、問いかけた。

一郎は自分も大いなる存在に導かれて生きている、生かされているのではないか、といつからか思うようになっていた。

問いかけは呻きのようにも聞こえた。「私の人生の意味は、一体何なのでしょうか。これから10年、20年生きるとしたら何を生き甲斐にして生きていったら良いのでしょうか。教えてください。今のままでは毎日生きるのが辛いのです」。

深夜まで一郎は問いかけ続けた。・・・しかし答えはなかった。夕食後、大いなる存在に問いかける日々が1週間ほど続いた後、夢の中に自分の中のもう一人Yが出てきて言った。

自分Y「大いなる存在は、あなたにあなたの人生の意味について、あなたの生き甲斐について答えることはありません。もし答えたとしてもあなたはそれに満足しないでしょうし、さらに責任を持つこともないでしょう。逆にあなたはあなたの人生からこれからどのように生きていくか、人生から問われている存在なのです。

もう一度言います。あなたはこれからどのように生きていくのか、人生に対して答える立場に立っているのです。それでこそ、あなたはあなたの人生に対して責任を果たすことができるのです。」

一郎「私は自分の人生をこれからどう生きていったら良いのか、分からないのです。ですから大いなる存在に問いかけているのです。」

自分Y「蹲っていないで、立ち上がってあなたの光を放ってください。それがどんなに小さな光でもあなたが放つ尊い光です。あなたはあなたの人生を逆転させてこれから生きていくのです。大いなる存在があなたに与えた人生に、あなたは自分の決意と実際の生き方で答えていかなければならないのです」

一郎「わたしに光があるのでしょうか。私の心の中はがらんどうで暗いのです。人々を照らす光があるとは思えません」

自分Y「あなたが気がつかないだけで、あなたの中には確かに光があります。あなたの光を輝かせるためにあなたは生かされているのですから」

一郎「生かされている・・・。私の光・・・」

 

一郎は夢の中のもう一人の自分が伝えてくれた言葉をしばらく受けとめかねていた。

どこか哲学的な表現で難しいところがある。しかし大いなる存在に対して答えていかなければならない、ということは分かった。自己満足的答えではなく、また世間一般が評価してくれるような生き方ではなく、大いなる存在が「良し」としてくれるような生き方だ。

 

一郎は自問自答の日々を送った。大いなる存在が「良し」としてくれるような生き方とは自分の場合、どんな生き方なのか。

 

そんなある日、妻の幸枝から家の近くの耕作放棄地が市民農園として貸し出されるので、借りて農作業をしてみない、という話があった。一郎はその話に乗った。後から振り返ってみるとそれが大きな転機になった。一郎は日々の日常生活に根を下ろして生きるということが人間にとって重要であることが、少しずつだが分かり始めていた。ある意味では一郎は日常生活という面では根無し草だったのかもしれない。家の仕事は妻に任せきりだった。幸枝は主婦として自分たちの生活をずっと守ってきてくれた。三食の準備をし、洗濯をし、新聞の広告を調べ買い物に出かけ、家の中の掃除をし、食器洗いをし、風呂を沸かし・・・その他にも一郎が気付かない家事もろもろをしている。いずれも生活し、生きていくためには欠かせない事柄だ。一方、一郎は一日の大半を自宅のデスクでパソコンに向かっていた。最近は風呂を洗い沸かすのは自分の役割と考えてやるようになった。

 

家の近くの耕作放棄地は以前は水田だったが、建設残土が盛られて畑になっていた。赤土では野菜は良く育たない。それから3年間腐葉土を入れて土壌改良作業を続けた。元肥の有機質肥料も入れ続けた。土壌改良作業は体力がいるので男性の仕事だ。農作業をするようになってから雨の日は別として、午前中は自宅の書斎で仕事をして、昼食後一休みをしてから、幸枝と一緒に畑に出かけるというパターンが出来上がった。

 

一郎の親しい友人の紹介で地方の若い事業者2人を経営面でサポートする仕事を始めた。A君は住宅販売会社で営業マンの仕事をしていたが、農業への思いが強く30歳になったのを機に農家に転身した。場所は埼玉県北部の町。目指しているのは野菜の有機的栽培だ。会員制の顧客に有機野菜を販売しているが、今のところ年間売上は100万円いくかいかないか。もう一人は山梨県南部で建設資材を販売している家族経営の会社だ。B君は親の後を継いで会社を守っている。これからという若い事業者の仕事をサポートすることが、大いなる存在が「良し」としてくれるような仕事ではないかと思い始めている。。

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新しい年を迎えた。西村晴樹から年賀状が届いた。こう書いてあった。「今年はできれば早いうちに会いたい。」 早速年賀状に記載のあった携帯電話にかけた。

一郎「新年あけましておめでとうございます。俺も西村に久しぶりに会いたいと思っていたところだ」

晴樹「元気そうで良かった。新年おめでとう。それじゃあ、1月中に会わないか。例えば土曜日の夕方とか。一杯やろうよ」

 

1週間後、晴樹と一郎は神田西口の居酒屋で会った。7年振りになる。お互い頭の白髪が増えてきている。

晴樹「元気そうだね」

一郎「ありがとう。今は半農半Xの毎日を過ごしている。午前中は仕事、午後は畑で農作業といった生活パターンさ」

晴樹「どんな仕事をしているの?」

一郎「若い事業者の仕事のサポートをしている。主に経営面のサポートなんだけど、時には人生面の相談にも乗っている。いろいろ悩みがあるからね」

晴樹「野中に合っている仕事なんじゃないか。野中は人の話を良く聴くタイプだから。俺も野中にはいろいろ話を聴いてもらった」

一郎「この歳になって改めて聴くということがどれほど大事か、気がついたんだ。相手の人格を大切にしながら関心を持って相手の話を聴く。言葉でいうと簡単に聞こえるが実際はなかなか難しい」

晴樹「若い事業者ってどんな人たち?」

一郎は現在仕事面でサポートしているA君とB君の仕事とサポート内容について手短かに説明した。そして一郎が自主廃業した父親から継いだ会社で、小企業の社長として過ごした悩み多かった日々のことを話した。

一郎「今でもああすれば良かったと思うことがあるけど、とにかく毎月の支払いをきちんと実行すること、しっかり回収すること、そして不渡りを出さないようにすることに神経の殆どを使っていたように思う。俺は経営者には向いていなかったんだ。心配性の性格が影響したかもしれない。その点、A君もB君もおおらかなタイプなんで自分とは違うが、規模の大小を問わず経営というのは悩みが尽きない。ということで悩みを聴く機会が多いね。」

晴樹「そういう人が傍にいてくれるとA君もB君も安心できるんじゃないかな」

一郎「そうだといいんだけど、どこまで役に立っているかな。ところで西村はフリーライターの仕事を続けているの?」

晴樹「相変わらずやっているよ。フリーライターの仕事の他に最近は本を出そうと思って、その原稿を書いている。テーマは「高齢者が生き甲斐を持って残りの人生を生きるためには何が必要か」だ。日本の社会は高齢期を幸せに、そして充実した人生の完成期にするために何をしたら良いか、ということにあまり関心を持って来なかった。そして今バタバタしている。これは日本人の性格なんだろうな。そろそろ直さなくてはいけないね」」

一郎「俺もそう思うな。本が出たら早速読ませてもらうよ。最近、自然の中で農作業をしていて思うんだが、時々フッと不思議な気持ちになることがある。言葉ではうまく表現できないけど、畑の中で立って大空を見上げていると空の彼方から誰かが自分を見ているような感じがするんだ。段々齢をとってくると今迄無かったような不思議な体験が増えてくるね。それは別にして西村も俺もそろそろ「自分とは一体何か。

自分の人生の意味は何か。そしてこれからやり遂げることは何か。そんなことを考える時期に来ていると思うんだ」

晴樹が改まって、こう言った。

「実は俺、肺がんで余命1年と医者に言われたんだ。原稿を書いている時、タバコを喫いながらが多かった。そのつけが来た。それもあって野中に新年早々会いたいと思ったんだ」  

一郎「あと1年か・・・。それでもうタバコは止めたんだね。あと1年の間に天からの、大いなる存在からの質問に答えていく、ということになるね。その手伝いをするよ。

最近自分は死んでも意識は生き続け、死後の世界で成長し続けていくと思っている。これは俺の勝手な思い込みではなく、ある有名な科学者であり、研究者である人が最先端量子科学の「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」に基づいて提起している考えなんだ」

晴樹「そうだといいね。ということは自分が死んでも俺の意識は野中とずっと一緒、ということなんだ」

一郎「俺は畑で野菜を栽培していて教えられたことがある。野菜は種を播いてから収穫まで3ヶ月か半年だ。短い、束の間の人生だ。それでも変わりやすい気候の中で、病害虫と闘いながら、また人に助けてもらいながら必死に生きて、花を咲かせ、実を稔らせる。そして次の世代のために種を結んでいく。人間の一生も考えてみれば束の間とも言える。この束の間の人生をどのように生きるか・・・畑に来ると野菜たちからそう聞かれているような気がする。そして『野中さんにはきっと「自分とは一体何か。自分の人生の意味は何か。そしてこれからやり遂げることは何か」の答が出せます』と励まされているような気がする。」

 

青空を雲が流れていく。鱗雲というより花びらのような雲だ。屋上菜園ではイチゴの花が風に揺れている。                

(第28話 了)

屋上菜園物語Ⅱ 27話 「野菜の歌」

 

晴れた青空を見上げながら、白い雲の流れを高崎敏夫の目はゆっくり追っていた。それは敏夫の心の中の風景でもあった。心の中をさまざまな思いが流れていく。敏夫はすぎもとまさとの歌をパソコンのYouTubeで聞きながら仕事関係の原稿を書いている。

歌の聞き方が以前とは違ってきた。40歳代の時は好きな歌を仲間とカラオケボックスで時々歌っていた。ひと時、男と女の愛を歌った演歌の世界に浸り、気分転換をしていたのだろう。しかし60歳を超えたあたりから演歌からいつの間にか、人生を歌う歌に惹かれるようになっていた。人生を歌う歌は人生の本当の姿、失敗、挫折も歌っている。60歳になって自分の人生全体を眺める余裕というか勇気も出てきたようだ。最近はすぎもとまさとのCDをパソコンにセットして聞くことが多い。「鮨屋で」はあさみちゆきの歌も併せて聞いている。あさみちゆきの歌声からは、娘が二度と会えない父を思いながら歌っている気持ちが伝わってくる。切ない。敏夫もそのようなことが分かる年齢になった。

                *

最近の敏夫は自分の人生を一本の木に擬えている。この世界に生まれ、大地に根を張りながら、段々成長してきた樹。10歳代に伸びた枝、20歳代に伸びた枝、30歳代に伸びた枝、40歳代に伸びた枝、50歳代に伸びた枝、そして現在60歳代に伸びている枝・・・。

樹は成長しながら樹全体を大きくしていく。若木の時に伸ばした枝も太く、長くなっている。それはあたかも人生を後から振り返って見て、若い時代からそれぞれの時代に新しい意味を、価値を加えていく行為に似ている。そして改めて折れている枝、枯れている枝があることに気付く。敏夫は折りに触れて自分の人生の樹を眺めることにしている。順調に伸びている枝、途中で折れた枝、枯れかかっている枝、そして天を目指している梢。それにしても折れたり、枯れたりしている枝が多いことに気付く。また幹にも大きな傷がある。

今、敏夫はビジネスコンサルタントの会社、「TNY(トニー)」でメンバ―と一緒に仕事をしている。顧客は地方の地場の家族経営に近いような会社、また農家を対象にしている。彼らはコンサルタントに高いコンサル料を払って事業経営を指導してもらう余裕が無い人たちだ。そのような人々が自分の事業の将来に希望を持つことができるように、事業が発展していくように、顧客がTNYの提供する事業計画フォームに基づき自分で事業計画案を作成し、またTNYが準備したビジネスモデルの作成マニュアルに基づき自分でビジネスモデルを創り上げてあげていく。簡単ではないが、ある時は呻きながら事業計画書を、そしてビジネスモデルを自分で創る喜びを感じてほしい。

彼らは定期的にTNYと打ち合わせを持ち、アドバイスを受ける。そして事業にとっては人と人とのつながりが重要だ。人脈の紹介もTNYで行っている。

チームのメンバーは3人。3人はK大学のクラスメートでさらに同じゼミだった。なぜか気が合い、卒業後も折りに触れて会っていた。敏夫はある食品会社で長年新規開発の仕事をしてきた。中村は新聞社勤務の後、コンサルタント会社に転職し、コンサルタントとして主に中小企業の事業計画づくりに携わってきた。山川はIT関係の会社でプログラムづくりの仕事をやってきた。60歳になったのを区切りにしてそれぞれの会社が副業を認めるようになったので、3人で事業を始めることにした。法人の形は一般社団法人、非営利。3人の名前の頭文字をとって法人名は「TNY(トニー)」。

3人の経営理念は「小さなチームで価値ある仕事、そして地方再生こそ日本の本当の再生」。3人は現場の様子を知るために、折に触れて顧客のいる地方に出張している。山梨県、千葉県、静岡県、さらには大阪府、島根県、熊本県・・・。顧客は徐々に増えてきている。宿泊する場合は民宿と決めている。旅館、ホテルと違い、民宿であればご主人、奥さんと話ができる。地元の様子が伝わってくる。

そして地方に行くと地元の高齢者が代々歌い継がれてきた民謡を聞かせてくれる。民宿のご主人が食後のミニイベントとして民謡タイムを用意して楽しませてくれるのだ。昔の人たちは厳しい農作業の後に歌ったのだろう。ところで自分の今迄の仕事に歌はあっただろうか、と敏夫は考える。今この年齢になって本当に仕事をしているという幸せを感じている。仕事とはやはり仕える事なのだ。

地元の民謡を一緒に歌う。やはり一緒に歌うとそれだけ楽しい。思わず歌わずにはいられない気持ちになる。
              *

最近地方に出張してよく聞く話は地方にいて仕事をしている男性が縁遠くなっているということだ。農家の長男の多くが嫁の来手が無くて独身を余儀なくされているとのこと。先日宿泊した静岡県の民宿では、家を出て東京に行って仕事をしていた跡取り息子の武夫が帰郷して今民宿を父親から継いでいるが、まだ経営が厳しいこともあり、嫁の来手が無い。民宿だけでは生活していけないので、先祖伝来の田んぼと畑で農作業もやって収入を補っている状態だ。「誰かいい人がいませんか。是非紹介してください」

敏夫は父親から頼まれている。父親は寝たり起きたりの生活で、「自分が元気なうちに息子が結婚すること、そして孫の顔を見たい」と口癖のように言っている。

一方武夫は東京で飲食店といういわば水商売で鍛えられたせいか、親から見ても逞しくなっている。「バタバタしてもしょうがない。なるようになる」と割り切って仕事をしている。

武夫は地元の高校を出た後、民宿の仕事は継がずに東京の渋谷の飲食店の店員となった。地元の高校の野球部の先輩がその飲食店で働いていた。深夜迄営業をしている飲食店で午前1時に片付けを終えて、すぐ近くのアパートに徒歩で帰った。勤務時間は午前10時から午後3時。2時間の休憩の後、午後5時から午後12時迄。

アパートは古い3階建ての建物で部屋は3階の4畳半一間と台所、便所だった。陽の当らない日陰の部屋だ。夕食は飲食店の残りものを持って帰って食べた。日記をつけて眠ると午前2時を過ぎていた。休日は週1回で月曜日。1週間の疲れもあり、休みの日は午前10時頃迄寝ていることが多かった。ある休日の朝、といっても午前11時頃、部屋の窓を開けて隣の建物の屋上を見ると小さな菜園が目に入った。隣の建物も3階建てて1階は蕎麦屋だ。昭和4年からずっとここで蕎麦屋をやっている。現在の主人は3代目とのこと。

武夫は時々この蕎麦屋で休みの日には昼食を食べている。武夫は蕎麦屋の主人に聞いた。

「屋上で野菜を栽培しているんですね。どんな野菜を栽培しているんですか」

主人「おお、やっているよ。季節ごとの野菜を屋上で栽培して、店で使っているんだ。お客さんに新鮮で、美味しい有機的栽培の野菜を食べて頂きたい、という気持ちと俺の気分転換を兼ねて育てている。もし良かったら今度ウチの屋上に来ないか。お隣りさんだよね。屋上で野菜の世話をしているのは朝の準備が終わった後なので8時頃から9時頃かな。」

武夫は休みの日に早起きして、午前8時には蕎麦屋の3階に上がった。外階段で屋上まで行くことができた。大分錆びついている階段だ。

屋上には大きな横長のプランターが10個ほど置いてあった。土は有機的栽培用の軽量培養土ということで触ってみるとサクサク、フカフカしていた。5つのプランターでは店で使うネギ、3つのプランターではナス、残り2つのプランターではミニトマトを栽培している。

主人「蕎麦屋は1年中ネギを使うからね。ナスは天ぷら用だ。ミニトマトは自分と家族で食べている」

広い畑で大きな青空の下で栽培されている故郷の野菜に比べ、こんな狭いところで栽培されている野菜を見て可哀そうな気持ちになった。それはまるで武夫自身のようでもあった。

武夫は休日には東京の中を歩き回ることにしていた。東京散歩だ。そして夕方、家々の、そしてマンションのガラス戸に明かりが灯る頃、明かりの下にそれぞれの家族の、住人の暮らしがあることを思うとなぜか明かりの灯る街を抱きしめたい気持ちに駆られた。自分はここにいる、生きているんだ、と叫びたくなった。故郷にいた時は山裾の村にはポツンポツンとしか明かりは無かった。一方東京は夜でもまるで日中のように光が溢れている。しかしその光はどうしようもなく武夫には寂しい光だった。休みの日、夕刻アパートに帰る途中、いつも寄る中華料理店がある。ラーメンと小鉢セットの定食を頼む。ここの主人は既に80歳を超えているが、元気に厨房に立ち、息子に指示をしながら料理を作っている。お客はほとんど地元の独身者だ。若い人もいるが高齢者も多い。お客は料理を配り、会計をしている奥さんと話しを交わしている。まるで自分の家の食堂にいるかのように。

武夫は食事を終えてアパートに帰ると蕎麦屋側の窓を開けて小さな屋上の菜園を見るが習慣になった。

武夫は思わず野菜たちに声をかけた。「そんな狭いところで、風通しも悪そうなところで大変だね」

ネギが答えた。「私たちは植えられたところで生きていきます。広い畑と違ってこのような場所ですから大きく育つことができません。それでもここで精一杯生きています。もちろん辛い時、苦しい時がありますが、生きるだけ生きていきます。明日は収穫されて皆さんに食べて頂くかもしれません。ですから一日一日が大事です。このような場所ですので十分に太陽光が当たりません。それに土寄せも不十分です。ですが、与えられた自然環境で生きています。武夫さんもそうではないですか。私たちは生きて生きて、最後は人のために役立つ、そして喜んで頂く。それは小さな喜びかもしれませんが。」

武夫「そこまで言うか。俺はまず自分のために、とにかく生きていかなければならないんだ。まだまだ自分のことで精一杯だ。故郷に戻るにしても何か「これだ」というものを掴まないことには帰るに帰れない」

ネギ「武夫さんはまだまだ若いですから、どうぞチャレンジを続けてください。私たちも武夫さんを見守っていますよ。」

夕べの風にネギが揺れ、ナスもトマトの枝葉を揺らしていた。夕焼けの空が広がっている。

               *

武夫は休みの日に埼玉県に住んでいる高校の先輩の家を訪問した。先輩は埼玉県朝霞市で土木工事関係の仕事をしている。昼食後、先輩が借りている畑に行き、一緒に農作業をした。畑の耕耘、施肥だった。畑の主に通路で硬くなった土をスコップで掘り返し、レーキで土を砕き、牛ふん、腐葉土を撒いた後、ガスボンベ式の耕運機で土を耕していく。かなりの重労働だ。先輩がやり方を教えてくれたので、武夫もやってみた。耕運機の跳ね上がりを抑え込むのに思った以上の力がいる。

先輩「時々遊びに来な。そして畑仕事を手伝ってもらったら助かる。」

夕焼けの雲が空一杯に広がっている。故郷の夕焼けと同じだ。夕べの風が気持ちいい。こんな感じは本当に久しぶりだ。野を渡る風に優しさを感じた。

武夫は心の中でつぶやき、思わず両親に感謝した。「自分は農作業が好きではないけど、両親は俺のために民宿で、畑、田んぼで休み無しで一生懸命働いてくれたんだ。お陰で高校の野球部で活動もできた。親父、母さん、ありがとう」

先輩は畑での作業の後、一旦家に帰り着替えてから近くの食堂に連れていってくれた。先輩「ここは餃子が売り物の中華料理店なんだ。好きなものをどんどん食べてくれ」

言葉に甘えて武夫は久しぶりお腹一杯食べた。食堂は早めに切り上げて近くのカラオケ店に入った。先輩は馴染みらしい。

先輩「仕事で疲れた時とか、気分転換したい時に来るんだ。歌を聴いたり、歌ったりすると、俺の場合は、また明日も元気にやるぞ、という気持ちになれる。俺の健康法は畑とカラオケかな。好きな歌手は何人かいるけど、最近はすぎもとまさとの歌を歌うことが多いかな。吾亦紅、忍冬、紅い花、鮨屋で、小島の女・・・。」

その晩はカラオケ店を9時過ぎに出て、渋谷のアパートに帰ったのは午後11時頃だった。

窓を開けて隣の蕎麦屋の屋上菜園を見た。月の光の中で野菜たちは眠っているようだった。野菜も夢を見るのだろうか。

カラオケ店で歌の本を見ながら気が付いたことがあった。花を歌った歌は沢山あるが、野菜の歌は無さそうだ。なぜだろうか。

                 *

武夫が東京に来て4年目。店の仕事にも慣れて副店長になった頃、故郷の実家の母から連絡があった。

母「父さんに癌が見つかったの。中期の胃癌だって」

武夫「それで父さんはどうしている?」

母「近い内に手術を受ける予定よ」

武夫「手術の日が決まったら、連絡して。そっちに行くから」

手術は地元の市立病院で受けた。父は気丈にしていたが、胃の全部を切り取った。

しばらく安静にしている必要がある。東京の店は長くは休めないので、手術の翌々日東京に戻った。夜、帰宅後アパートの窓を開けて隣の蕎麦屋の屋上菜園を見た。ネギが一部収穫されている。ミニトマトは枝葉が枯れていた。ナスは切り戻しをした後だった。

ナスが夜更けの風に揺れている。ナスが声をかけてきた。

ナス「しばらくお見掛けしませんでしたが、何かあったんですか」

武夫「故郷の父が胃癌で手術を受けたんだ。それで実家に帰っていた」

ナス「御父さんの具合はいかがですか?」

武夫「予想していた以上に胃癌が進行していて、胃を全部取ったんだ」

ナス「御父さんは武夫さんに戻ってきてほしい、と言ってましたか」

武夫「そうは言わなかった。俺にどんなことがあっても武夫は自分が選んだ道を歩け、と

  言ってくれた」

ナス「それで武夫さんはどうされるお気持ちですか」

武夫「野菜の皆さんを見ていると種を播かれ成長し、実をつけ、種を結んでいく。そして

  その種が播かれ、バトンタッチが繰り返されていく。俺は本当の意味ではまだ実を

       つけていないが、親父が生きているうちにバトンを受け取りたいと思うようになった。

  東京で仕事をし、暮らす中で、東京のいいところもそうでないところも分かった

       ような気がする。田舎のいいところ、悪いところも、東京で暮らし、仕事をする中で

       見えてきた。まだ俺は未熟者だけど、親父が元気でいるうちに故郷に戻り、親父

       からバトンを受け継ぎ、走る姿を見てもらいたいと思うようになった」

ナス「そうですか。それではいよいよ故郷に帰るんですね。寂しくなりますが、どうぞ故郷

      で頑張ってください」

               *

武夫の民宿に敏夫が泊り、いつものように食事の後、地元民謡を一緒に歌った。歌の後、敏夫は今回は地元の温泉旅館のために事業計画とビジネスモデルづくりのサポートをしていることを武夫に話した。

武夫から自分の民宿のためにも事業計画とビジネスモデルを創りたいとの申し出があった。敏夫は快諾した。実は前々からこの民宿のことが気になっていたのだ。

敏夫はこの民宿がこの地域で都会に住み、仕事をしている人々にとって「第二の故郷」になることを考えていた。

事業計画とビジネスモデルは1年掛けて創り上げることにしている。

いよいよ敏夫と武夫のコラボが始まる。地方と都市との循環的交流、関係人口づくりが日本のこれからのために必要となる。

武夫から提案があった。

事業計画とビジネスモデルが出来上がったら、それを是非歌にしたいですね。これからは事業、仕事のための歌がほしいところです。新しい時代の民謡です。

新しい時代の民謡を作詞、作曲の専門家もお呼びしてつくりましょう。演歌ではなく、人々の生活と仕事と人生を支える「援歌」が沢山できるといいですね。

その晩、夕食の後、敏夫と武夫は民宿にあるカラオケセットで心ゆくまで歌った。地元の民謡を、そしてすぎもとまさとの歌を。

 

転がる石は どこに行く

転がる石は 坂まかせ

どうせ転げて行くのなら

親の知らない 遠い場所

 

                                 (了)

屋上菜園物語Ⅱ 第26話 「輝くリアリティを」

 

秋川進は今年3月で長年勤めた製薬会社を定年退職した。まずは健康維持のために近くのフィットネスセンターに通い始めた。そして3ヶ月。家で昼食後、一休みしてからセンターに行き、指導員のアドバイスを受けながらいくつかの運動メニューをこなして、帰宅する。

秋川のマンションは武蔵野線の沿線の駅に近いところにある。秋川の住居は10階だ。育代は仕事で外出して帰宅するのは7時半頃だ。二人に子供はいない。

秋川は帰宅して住居の鍵を開けて、自分の部屋に入り窓を開けた。丁度西空が夕焼けに染まっていた。太陽が輝きながら音もなく沈んでいく。

秋川は暫く太陽が沈む迄夕焼けを見ていた。ビジネスマン時代はこんな風に夕焼けを見ることはなかった。なんとも言えない寂しさが胸の中に広がってきた。表現しようのない寂しさなのだ。このような寂しさ、虚しさはビジネスマン時代には感じたことがなかった。いつも仕事のことを考えていた。今迄自分の心の中心を占めていた仕事が無くなった後、ポッカリと穴が開いたように感じていたが、その穴が段々大きくなってきている。その穴を何で埋めたら良いのか今のところはまだメドがたっていない。

夕焼けの下に秩父の山々がシルエットになって見える。15年ほど前、仲間と一緒にハイキングに行ったことを思い出した。そのうち2人の友は既に他界している。夕焼けを見ながら、秋川は胸の中で友の名前を呼んだ。「小野・・・、古西・・・」

その晩、秋川は友人の岡部に電話をした。岡部からは「どうしようもなく寂しくなったら一人で抱え込まずに電話してくれ。いつでもOKだ。自分もそうする」と言われていた。

秋川「秋川です。今大丈夫?・・・良かった。少し話したいことがあるんだ。最近なぜか虚しさ、寂しさを感じることが多いんだ。特に夕方から夜にかけてそんな気持ちになる」

岡部「電話をかけてくれてありがとう。退職して3ヶ月経ったんだね。身体の方は大丈夫かい?・・・それは良かった。ところで虚しさ、寂しさを感じる時、秋川はそれを否定的に考えているかい、あるいは肯定的に考えているかい」

秋川「やはり否定的に受け止めていると思う。できたらこんな気持ちにはなりたくないと」

岡部「否定的に受け止めているんだ。それが自然なんだと思うけど、虚しさ、寂しさの中に何か肯定的なことがないだろうか。光のようなものが」

秋川「そこまで考えたことはなかったけど、そういう考え方があるんだ」

岡部「自分もなかなかそういう考え方ができなかったけど、最近努めて否定的なことの中に肯定的なことを、逆に肯定的なことの中に否定的なことを見出すように心がけているんだ。一種のバランス感覚かな」

秋川「そういえば寂しさ、孤独を感じるようになって、やっと自分の人生の意味を考えるようになったように思う。今迄仕事中心の毎日だったし、人生だったから。ある意味で自分の人生の意味を考える時間も無かった」

岡部「自分もそうだった。定年退職して否応なく自分の人生の意味を考えるようになった。大きな会社で部長にまでなった君と違って俺は大して出世もしなかった。部下のいない課長どまりだった。頭の回転も遅くて、仕事をしていくうえで大きなハンディキャップになっていた。仕事に取り組む際の理解力というか、呑み込みに時間がかかった。自己嫌悪と自己憐憫を繰り返していたよ」

秋川「そんな風には見えなかったけど・・・それで今はどんな気持ちでいるの?」

岡部「今は自分の欠点、弱さの中に敢えて肯定的なこと、良い部分を見つけるようにしている。それがやっとできるようになった。欠点、弱さを抱えている自分を愛せるようになってきたんだ。そんな自分を愛せるようになって初めて他の人も本当の意味で愛せるような気持ちになってきた。それも深いところで」

秋川「自分を愛せるか・・・。自分にも欠点、弱さがある。今度会った時、そのあたりの話もしたいね。岡部、君はぼくの人生の友だ。これからの人生、一緒に歩いていってほしい」

岡部「秋川、君は俺の人生の友だ。天国に行くまでこの地上の旅路を一緒に歩いていこう。これからが人生の完成期に入っていく大切な年月になる」

秋川は帰宅した妻と一緒に夕食を取りながら、思わず言った。「結婚してから今迄一緒に生活し、人生を共にしてくれたことに感謝しています」。育代はちょっとびっくりした表情になったが、少し茶化すように「こちらこそ十分なことはできませんでしたが、これからもよろしくお願いします。」そして話を続けた。「今度ウチの会社で室内緑化が始まったの。やっぱり緑があると気分がいいわ。私たちの居間にも鉢植えの観葉植物とかハーブとか多肉植物を置くことにしない。ハーブとか多肉植物ならあまり虫の心配もないし」

育代は携帯電話で撮った事務所の写真を見せてくれた。本格的な室内緑化だった。そしてもう一つ。育代の会社は外資系で社員のウエルビーイングにも力を入れている。仕事をしながら「幸せ」を感じる。ワクワクする、自分たちにしか出来ないことをやっている、実際に実現する。「企業も変わりつつある」秋川は心の中で呟いた。「これから時代は大きく変わっていくのだろう」

土曜日の午後、家で昼食を食べた後、秋川と育代は近くのホームセンターに行った。徒歩15分のところにある。向かったのは園芸店だった。人だかりになっていた。店員が若い男性のお客の質問に応えている。「今テレワークで仕事をしているので、デスクの横に観葉植物を置いて気分転換をしたい。何かおススメの観葉植物はありませんか」

店員「それならまずガジュマルから始めてみたらいかがでしょうか。沖縄産です。植物ですから窓際にできるだけ置いてください。水やりは土の表面が乾いた時です。そして霧吹きは1週間に1回やってください。そうすれば葉についた室内のホコリや虫を洗い流すことができます。」

秋川と育代は店員と相談して居間用にフィカス・ウンベラータ、食堂用にはフィロデンドロン‘パーキン’とパキラとガジュマルを購入した。

今迄気が付かなかったがこのホームセンターの屋上にはこの園芸店が運営している貸し出し菜園がある。2区画空いたので募集をしているところだ。1区画、月3000円、栽培指導付き、とのこと。面積は90cmx180cm。締め切りは今週末の日曜日。今なら夏野菜の栽培に間に合う。店員に聞いたところ、まだ2区画とも空いているとのこと。「やってみない。お父さんにとっていい気分転換になると思うわ。」決める前に屋上菜園を見せてほしいと店員に頼むと他の店員がすぐに案内してくれた。屋上のフェンスの囲いの中に20区画の菜園がある。屋上は見晴らしがいい。360度見渡せる。それだけでも気持ちがスッキリする。

育代が言う。「お父さんも気分転換を兼ねて少し土いじりした方がいいわ。このくらいの面積なら、作業時間は30分もあれば十分よ。散歩がてら来て農作業をする。農作業をすると幸せホルモンも出てくるというし、借りてみない?借りましょうよ」

育代に押し切られる形で1区画を借りることにした。育代が強く勧めたのには理由があった。育代が気になっているのは最近夫の笑顔が少なくなっていることだった。元々表情の豊かなタイプではないが、最近は少し塞ぎ込んでいるようだ。元気になってほしい、そんな気持ちだった。屋上菜園の利用者申し込み用紙をもらって帰宅した。明日判を押して持っていくことにした。

秋川は退職後自分なりに一日の過ごし方を決めていた。まずは健康だ。朝はテレビ体操をして、朝食後は出社する育代を見送った後、散歩に出かける。1時間程度。一息入れた後、近くのフィットネスセンターに行き、お昼まで運動メニューに従って筋肉を動かす。帰宅後、育代が用意した昼食を食べ、午後は少し仮眠した後、読書。会社に行ってた時はなかなか時間が取れなくて、買ったけれど読めないまま積読の本が多くあった。夕方まで読書三昧。育代から夕食のメニューを受け取っているのでそれに基づいて夕食づくり。

最初は慣れなかったが、今では10メニューぐらいなら作れるようになった。今は新型コロナウイルス問題で育代は月、水、金と週3回出社。育代の出社日は秋川が夕食をつくることになっていた。

今晩は秋川が夕食をつくる日だ。麻婆豆腐をつくりながら、電気釜のスイッチを入れる。育代は6時半に帰宅した。一緒に食卓のテーブルにご飯、麻婆豆腐、サトイモのフライ、キュウリの味噌漬け、ポテトとレタスとバジルのサラダのお皿を並べて夕食。今晩の話題は貸し出し菜園で何を栽培するか。

育代が言う。「夏野菜の定番というと、ミニトマト、ナス、キュウリ、それにピーマン、小玉スイカ、ゴーヤ、といったところかしら」育代は嬉しそうだ。今迄夕食の時の話題は少なかったがこれからは野菜づくりで夫と話しができる。「それから観葉植物は明日の午後1時~3時に届くわ。私たちの生活にこれから緑がふえていく。楽しみ~」

秋川は1週間ぶりに夕食の後、岡部に電話をした。今日は話が少し長くなりそうだ。

秋川「秋川です。今いいですか。・・・実は今後近くのホームセンターの屋上にある菜園を家内のススメもあり、借りることになったんだ。・・・屋上だから、90cmx180cmの面積の小さな菜園なんだ。栽培指導付きということなので教えてもらいながら、これから  野菜を育てていくよ」

岡部「それは良かった。自分も市民農園を借りて野菜を栽培している。60歳台から農作業を始めればボケ防止にもなる。野菜の成長する姿を見ながら、気付かされることがある。まずは野菜と向き合いながら栽培作業をしてほしいね。最近アグリヒーリングが注目されている。農作業による癒し効果だ。秋川もきっと癒し効果を経験すると思う。自分も会社を退職した後、本格的に農作業を始めたんだ。畑は変わったがあれからもう15年になる。俺は神経質で気の小さい人間だからもし農作業をやっていなければ恐らくうつ病になっていたんじゃないかな。下手すると生きていなかったかもしれない。農作業で救われたと思っている。ところでどんな野菜を栽培するの?」

秋川「まずミニトマト、それからナス、ピーマン、ハーブではバジル。こんなところからスタートしてみる」

岡部「最近はテレビでも野菜栽培の番組があるから、それも参考にするといい。それから野菜の有機的栽培の本もあるから、それを基本テキストにして栽培の仕方を勉強ししてください。これからは秋川と野菜の話もできる。嬉しいね。定年退職後は人との関係を見直し、これからの人生を一緒に歩める友を持つことに加え、自然に触れ、自然の中で生きることが大事だと思う。自然の中で生きるキッカケが必要だけど、野菜は身近で触れる自然としてはちょうどいいね。これからは日々の日常生活にリアリティを感じながら生きることが大切になってくるし、そこに生きがいも生まれてくる。対象との関係性がリアリティの程度を決めていくと最近気付かされた。リアリティは自分らしく生きる喜びと責任かな」

秋川「リアリティ・・・そうなんだ。最近悩んでいたことは毎日の生活に生きているという実感が乏しくなっているんだ。それが精神的にとても辛いね」

岡部「仕事から解放されて、日々の生活と向き合い、自分と家族に向き合い、自然と向き合っていく・・・。秋川にとってリアリティが輝く日々が始まっているんだよ」 

 

(第26話 了)

屋上菜園物語 Ⅱ 第25話 「コミュニティファーム」

 

 (1)野菜栽培に救われた経験

緑川は都市部での屋上菜園の普及活動に過去14年間取り組んできた。屋上菜園を個人向け、業務向けに分類し、最初は個人向け、途中から業務向けの普及活動に力を入れてきた。

しかし、新型コロナウイルスの拡大に伴い、北千住の商業ビルの芝生と木、そして菜園で緑化された屋上の一般開放が中止となった。以前は買い物の後、屋上に上がってきて緑化されたポケットパークのようなところで一息入れる。都会の真ん中に居ながら田園風景を楽しめる、そして地元の人達を対象にした収穫イベントの開催。イチゴ、サツマイモ・・・。

今年の5月から始まった屋上の一般開放の中止が現在に到っている。緑川たちの一般社団法人の栽培作業は通常通り続いてはいるが、おそらくコロナウイルスに効くワクチンの投与が始まり、効果が確認できる来年夏迄、屋上が一般開放されるのは難しいのではないか。ということで、屋上菜園で収穫された野菜は隣接しているところにある保育園と商業ビルの社員の皆さんに渡している。

もう一つ、御茶ノ水にある保険会社の屋上菜園は貸出菜園で地域貢献という趣旨のために地域の人々に貸し出されている農園だ。こちらは3密を避けるという条件で利用者の栽培活動が続いている。ある高齢の利用者は「家にずっといると気持ちがおかしくなってくる。この屋上菜園に来るために外出して、野菜に触れるのが何よりの気分転換になっている」と言っていたのが印象的だった。

 

それにしても現在の新型コロナウイルスは今後拡大する恐れがあり、予断を許さない状況になっている。最悪のケースになるが屋上菜園の一時的閉鎖をいうことがあるかもしれない。緑川はいたずらに悲観的になることは避けて、ここは一旦立ち止まって、もう一度冷静に屋上菜園の意味あるいは価値を、近未来を視野に入れながら、見つめ直す良い機会と考えることにした。

 

今思っていることは一つのことだ。息子の事故死、自分が経営していた会社の自主廃業後、心の中にぽっかりと大きな穴が開いて、すっかり生きる目的、事業を再開する意欲を失い、虚ろになっていた時期があった。そんな自分を小さな市民農園の野菜たちが救ってくれたのだ。その貸出菜園は家の近くにあり、幸い抽選で当たった。小さな市民農園に通い続けた。面積は10㎡前後。野菜づくりは初めての経験で、今から考えるといい加減な栽培作業をしていたが、それでも野菜たちは実をつけてくれた。もし野菜栽培をしていなかったら、ウツ病になっていたかもしれない。さらには人生に生きる目的を見いだせないまま、自死の道を選んでいたかもしれないとさえ思う。野菜たちの生きる姿を見ながら、どれほど励まされたことだろうか。野菜栽培の楽しさが分かり始めたころ、ある方の紹介で、茨城県の八千代町で畑を貸してくださる農家と知り合いになり、その方の畑の一部を借りて本格的に野菜栽培を始めることになった。折角やるんだったら野菜の有機的栽培に取り組んでみようということで1/4反ほどの面積で有機的野菜栽培に取り組んだ。毎週土曜日、自宅を7時半頃車で出発し、荒川、利根川を渡って八千代町の畑に通った。現在の年齢ではとても無理だが、当時はまだ60歳をちょっと越した頃で、体力的にもなんとかやり続けることできた。

虫たちが私の畑は農薬を使っていないので、「安全・安心」と思ったのか、虫たちが集まるようになって、周囲の農家から苦情が出るようになり、3年後八千代町での栽培は諦め、引き上げた。その後家の近くの農家から畑を借りて6年ほどそこで野菜を栽培していたが、その畑が住宅地になるということで引き払い、武蔵野線近くの畑に移動してきて、現在に到っている。この畑は以前は水田だったが農家が稲作を諦め、土地改良ということで建設残土を入れて畑にしたものだ。借りた当初は赤土のため野菜の育ちが良くなかったが、毎年沢山の腐葉土を入れ、貝化石石灰、牛ふんを入れてきた結果だろう、現在はフカフカの土になっている。この畑を緑川は武蔵野線の近くにあるので「武蔵野農園」と名付けている。緑川は野菜栽培については自己流であり、専門家ではないが、何よりも野菜の生きる姿から、生きる力をもらっている。

野菜栽培を通じて、緑川は救われた、そして今も救われている。野菜栽培を通じてこの人生を生きるヒントももらっている。

そして一方で都市部の屋上で屋上菜園事業も続けている。こちらはかれこれ始めてから14年が経った。屋上菜園事業は緑川にとってこの時代から与えられた天命と言うか使命となった。緑川の使命は社会の片隅のその片隅の一隅を照らすまさに小さな光だが、天から与えられた使命と受け止めている。

緑川は晩秋の早朝、青空を流れる雲を眺めながら、改めて使命という言葉を、「一隅を照らす」という最澄の言葉を噛み締めた。

 

(2)屋上菜園について。学生のインタビュー              

 

ある日、メールがあり、M大学の政治経済学部の学生S君が卒業論文として都市部の屋上菜園を取り上げることにしたいので、協力してほしいとのことだった。

緑川たちが栽培作業・指導をしている菜園を2日間かけて見学してもらってからインタビューとなった。場所は北千住駅の商業ビルの屋上菜園で、野菜を見ながらのインタビューだ。

 

―まず基本的な質問ですが、なぜビルの屋上で有機的な野菜栽培を始めようと思ったのですか?

 

私自身、ささやかですが、畑を家の近くで借りて野菜づくりをしています。家は埼玉県志木市でまだ周囲には畑が沢山あります。ところが東京など都心では一部の区は別にして野菜を栽培できるような場所は殆どありません。都市部ではマンションのベランダで野菜栽培をしている住民も多くいますので、野菜づくりをしてみたいという人は多いのではないでしょうか。それならビルの屋上は使えないか、屋上なら家賃も発生しないし、何よりも太陽の光が良く当たる。屋上であれば野菜につきものの病害虫も少ない。それなら素人でも野菜栽培の基本を学べば有機的栽培ができるのでは、と考えたんです。

 

―そこに目をつけられたのですね。ところで屋上に菜園を設置する場合、どんなことに気をつけたらいいのでしょうか。

 

まず土の問題です。ビルの屋上には荷重条件というのがあります。屋上に何かを設置したり、置く場合には180㎏/m2以下となっています。ところが、日本は地震の多い国ですから建築基準の他に地震力荷重というもっと厳しい条件があります。60㎏/m2です。これは1m2あたり載せられる重さは60㎏以下ということです。土の比重を1とすると60㎏の場合、土の深さは6cmとなります。

通常の畑の土は比重が1.6前後ですから、60㎏/㎡で計算すると土の厚さ(深さ)は3.75cmとなります。この深さでは野菜はとても育ちません。そのため比重の少ない計量土壌を使います。

屋上の荷重条件は屋上全体の面積を使って計算します。屋上菜園を設置する場合は屋上の使用可能面積と日照条件が分かれば、どこに菜園をどのようなレイアウトで設置したら良いかを決めることができます。

私たちは比重0.7の土を使って15cmの土厚で葉物野菜、実物野菜、根物野菜を栽培しています。

 

―そこがまず露地の菜園と言うか畑と大きく違う点ですね。他に気をつけることは何でしょうか。

 

あとは風ですね。屋上は地上に比べて風が強く吹きます。布とかシートが飛ばないように注意します。特に台風の時は飛びそうなものは全部片づけます。

 

―まだ他に注意することはありますか。

土と風に注意して頂ければ、あとは小さな問題です。

 

―緑川さんが屋上菜園で目指していることはなんですか。

それは私が経験したことですが、野菜を栽培する人が野菜から元気を、もっと言えば生きる力をもらってほしい、これが第一です。二番目は季節の変化を、自然の移り変わりを感じてほしい。都会で生活し、仕事をしているとどうしても季節の変化に鈍感になります。私は人間も自然の一部、自然の中で生かされていると思っています。自然から離れているといつかおかしくなる。そして三番目は屋上菜園では仲間と一緒に作業をしてほしい。一緒に作業することによって仲間になり、ひいてはそれがコミュニティになっていく。都会に住む人は孤独になりがちと言われていますが、野菜栽培を通じて普段着のコミュニティが生まれていくといいと思っています。

 

―ところで屋上菜園は都会で増えているんでしょうか。

それほど増えていないように思えます。屋上菜園と言った場合、プラスチックのプランターも加えると増えていると思われますが、一定規模の施工を伴う屋上菜園はそれほど増えていないのではないでしょうか。キチンと調べたことがないので正確なことは言えませんが・・・。10年前屋上菜園ブームの時期がありました。私のところにもあちこちから問い合わせ、引き合い、見積依頼がありましたが、実現したのはごくわずかでした。一番大きかった問題は栽培管理でした。緑化の場合は造園業者に年何回か手入れを頼むということになりますが、野菜栽培はそれこそ毎週の世話が必要です。とてもそこまでの栽培管理費は払えない、かといって自分達で野菜栽培をするといっても知識も技術もない。ということで業務関係はそれほど増えなかったと思います。一方個人でご自分の家の屋上とかテラスで個人的に栽培している方は大勢いるでしょうが、途中で飽きてしまったり、栽培作業が大変になって辞めてしまうということがありますね。

 

―屋上菜園は事業として成り立っていますか。

私たちの屋上菜園に限定して言いますと。まだ成り立っているとは言えないですね。残念ですが、持ち出しが続いています。事業としては2つの分野があります。まず個人向け。この場合は例えば屋上菜園クラブのようなものを作って会員になって頂き、会費を払って頂く。もう一つは法人向けです。ただ法人の場合は屋上菜園が会社にとってどのようなメリットをどの程度実現できるかを問題にします。現在2つの法人の屋上菜園を管理・運営していますが、このあたりが大きな課題です。つまり屋上菜園はどのような価値を生み出しているか、その価値とは具体的にはどのような内容のものか、ということです。

私たちが考えている価値と相手方の法人が受け止めている価値との間にギャップがある可能性があります。野菜を屋上で栽培しているというだけでは限界があります。なにかしらの付加価値を付けていく必要があります。もっと言うと

法人に評価して頂ける魅力的な価値を付け加えられるかどうかが屋上菜園を続けられるかどうかの鍵を握っているのではないかと思っています。いわゆる経済的・社会的利益を明確にする必要がありますが、それをどのような方法で提示できるか、力不足もあり、残念ですが、まだそこまで検討が進んでいないというのが現状です。

それに比べ老人ホームの場合は入居者の皆さん、職員の皆さんと一緒に作業をしたり、収穫したり、セミナー・ワークショップをして喜んで頂けるので、あまり難しいことを考える必要はないのかもしれません。もっとも屋上菜園があることが入居率の向上につながるということがあるかもしれませんが、まずは直接的効果が重要だと思います。

私たちの社団法人は前期大口の寄附があって黒字になりましたが、通常の収支では赤字となっています。ここ1~2年が事業として成り立つか、最終的な判断をしなければならない時期に差し掛かっています。

今後老人ホームに屋上菜園を普及させていくことができれば屋上菜園は事業として成り立つ可能性が強くなっていくと期待していますが、現在の新型コロナウイルス問題で普及活動が思うようにできないのがもどかしいですね。

 

―屋上菜園の今後の見通しをお聞かせいただけますか。

 

今後はニーズが特に強くある老人ホームで屋上菜園が増えていくのではないかと期待しています。野菜栽培、収穫それに伴うプログラム、ワークショップも開発することで、東京23区で老人ホームでの屋上に菜園が増えていくのではないでしょうか。商業ビルの屋上、事務所ビルの屋上菜園は社員の皆さんのための福利厚生施設として位置付けて頂ければと思います。それぞれの野菜の収穫期に社員の皆さんが収穫する、社員の皆さんの嬉しそうな声が聞こえてきそうです。これからの時代、企業にとって社員のための福利厚生はますます重要になってくると思います。パソコンに1人で向かう時間が多い現在だからこそ、そんな時間があるといいと思います。屋上菜園をぐるっと囲む形でテーブルを並べ、ランチタイムはそこでお弁当を野菜、果樹を見ながら食べる、というのもいいですね。場合によってはちょっと収穫してランチに添える。

 

―緑川さんは最近屋上菜園だけでなく、地上の畑の菜園、「コミュニティファーム」の実現に向けても動いていると伺いましたが、「コミュニティファーム」とはどんなファームなんでしょうか、また屋上菜園とどのようにつながっていくのでしょうか。

 

最近、私たち夫婦が二人でやってきた武蔵野農園に作業と収穫のために、来てくださる人が増えてきました。新型コロナウイルス問題が長引き、テレワークの人たちが気分転換も兼ねているのでしょう、農作業をしてくれます。夫婦2人で1/3反の畑で農作業をしていますが、齢をとるにつれて作業が段々きつくなってきました。私たちの友人、知人の皆さんが武蔵野農園に来て一緒に作業し、収穫作業に携わってくださることを本当に嬉しく思っています。武蔵野農園は広いので、3時間、4時間という作業時間になります。ということでお昼を挟んでの農作業もあります。作業して、お昼を一緒に食べておしゃべりもする、という感じでしょうか。露地の畑ではスコップ、鍬を持った作業があります。かなりの肉体労働になることもありますが、快い疲れで夜はぐっすり眠ることができます。

屋上菜園は狭い面積の畑ですから大体一日長くても1時間、通常は30分以内の農作業です。屋上菜園は建物の屋上にありますので、直ぐにいくことができます。屋上菜園で有機的栽培のコツを掴んで、もっと広い地上の畑で有機の野菜作りをしたいという人もいることでしょう。武蔵野農園は埼玉県ですが、池袋駅から電車で20分、徒歩20分のところにあります。

武蔵野農園での野菜の有機的栽培に強い関心を持ってくださっても実際に農園に来ることができるのは1週間に1回ぐらいかもしれませんね。それでいいと思います。でも屋上に、あるいはベランダに菜園を設置すればそれこそ毎日野菜作りを楽しむことができます。露地の農園で栽培した野菜の苗を屋上菜園で植付けることができます。苗をホームセンターで買う必要がなくなりますね。今年の秋、武蔵野農園ではイチゴの苗を300本以上植付けました。最近ではイチゴの苗をホームセンターで買おうとすると1本200円以上になりますから300本ですと6万円という計算になります。武蔵野農園で育てた苗を屋上菜園で植え付けることができれば経費節減になります。武蔵野農園に来られた方たちがお互いの屋上菜園、ベランダ菜園について写真を見せ合う・・・そんなこともできるようになります。野菜栽培にとってこのような交流は、特に農作業を続けるための重要なモチベーションアップにつながります。農作業は1人でやっていると大変ですが、皆さんと交流しながらやるとこれほど楽しいことはありません。これは私の実感です。

 

―今日はザックバランにお話してくださり、ありがとうございました。これからもまたいろいろお伺いすることがあると思いますが、よろしくお願いします。

 

どうぞ遠慮なくお問い合わせください。ひょっとするとこの新型コロナウイルスをキッカケにして、農作業に関心を持つ人が増えるかもしれませんよ。

 

(3)コミュニティファーム始まる

緑川は奥さんと一緒に現在の武蔵野農園を皆で栽培するコミュニティ農園にしていくための準備を進めてきた。武蔵野農園の面積を考慮して、まず10名でこの農園の運営をしていくことにした。基本作業日は土曜日と日曜日。

緑川と奥さんは週に3回、武蔵野農園に行き、作業をする。そして毎月毎週の土日の作業予定を8名のメンバーにメールで連絡し、当日参加できるメンバーで分担を決めて作業をする。つまり協同作業。区画を分けて自分の区画での栽培作業はないことにした。当日収穫できる野菜を全員で収穫して参加したメンバーで分け合う。決めごとは出来るだけ少なくした。

 

当日の作業時間を決めて作業をし、休息時間にはお茶を飲み、お昼を一緒に食べて、田園風景を楽しみながらおしゃべり。

種苗、資材費として1人あたり年間2万円をコミュニティファームに納める。

このコミュニテイ・ファームは緑川夫妻が責任者となっているが、野菜栽培については地元の農家を顧問として迎え、その野菜の栽培指導をしてもらうこととしている。やはり土地柄というものもある。

将来は畑の一部を使ってフィットネス、マインドフルネスのトレーニングもできればと考えて、企画中だ。

小さな子供連れの家族もいるので畑の片隅に折り畳み式の仮設トイレを設置した。

コミュニティ農園で経験を積み、さらに本格的に野菜づくりをしたいと思うメンバーは提携している地方に農作業応援という形で行くことができる。

これからは都市生活の良さと田舎生活の良さをバランス良く組み合わせていくことが大事だ。新しい、未来を築く今迄なかったコミュニティづくりが求められている。その実現のためにもう一踏ん張りしよう、花を咲かせ、実をつけていこう、緑川はそう自分に言い聞かせた。

(第25話 了)

 

 

屋上菜園物語 Ⅱ 第24話 「人生、楽しく生きる」

 

坂本恭平から風祭伸之に電話があった。久しぶりに会いたいとのことだった。新型コロナウイルス問題があり、室内ではなく外で、しかも気持ち良く話せる場所ということで、「農園で会おう」ということになった。伸之の農園は武蔵野線の高架鉄道の近くにあり、面積はおおよそ400㎡。農園の片隅に簡単な飲食ができるテーブルと椅子が置いてある。周囲も貸出農園で数名の市民が野菜づくりを楽しんでいる。

 

ある晴れた日の午後2時、伸行は最寄りの駅まで坂本を迎えに行った。駅から畑迄は徒歩で約20分。近況を話し合っているうちに畑についた。

 

恭平「広々としている。360度見渡せる。気持ちいい。空がこんなに広いなんて忘れていた。」

伸之「たまにはお越しください。(笑い)見事な夕焼けも見られますよ」

 

伸之は今日の作業の予定を恭平に説明した。

「今日は畝を2本作ってもらえるかな。そこにマルチングシートを張って玉ねぎの苗を植え付ける。堆肥と元肥は2週間以上前に入れてあるから。マルチは2人でやった方が早いから2人でやろう。作業が終わったらサトイモとサツマイモを、試し掘りという感じで収穫しよう。」

「OK,了解」

それから2時間、2人は作業に集中した。

伸之は腐葉土をつくるための枠づくりをした。長さ360cm奥行き90cm高さ90cmの大きなものだ。栽培している畑の面積が増えてきている。隣の区画のTさんは脳梗塞後遺症で以前の面積での栽培は出来なくなった。「半分やってもらえませんか」ということで50㎡程譲り受けた。

伸之は有機的栽培で野菜を育てている。腐葉土は欠かせない。もう1ヶ所を合わせて2ヶ所の畑の面積を合わせると500㎡ぐらいになる。今の堆肥枠を拡張する。追加分は雨戸とかベニヤのパネルをリサイクルという形で使うことにした。切り替えし作業があるので、支柱を打ち込み、板を両側から支えて、必要な時は板を外せるようにしておく。

毎年近くの中央公園から枯葉をもらってくる。昨年は大きなビニールの袋で20袋以上貰ってきた。今年は60袋以上になるかもしれない。車で何度も往復することになる。それが大変だ。

作業に区切りがついたのを見計らって一服することにした。かれこれ2時間経っていた。畑にいるとなぜか時間が早く過ぎる。

伸之がポットから2つの紙コップにコーヒーを注いだ。一口飲んだ後、木製のテーブルに紙コップを置いて、伸之が言う。

伸之「今日は坂本と『人生を楽しく生きる』について話合いたいと思ってるんだ」

恭平「そうか。・・・始めに聞くけど、どうして人生を楽しく生きることについて俺と話合いたいと思ったんだい。」

伸之「俺からみると坂本はいつも穏やかで、笑顔も多いし、人生を楽しんでいる、というように見えるんだ。俺は昔ほどではないけど、落ち込むことも、精神的に不安定になることも結構あって、いまだにそれで悩んでいる。齢をとれば良くなるんじゃないかと期待していたんだけどそうではなかった」

恭平「風祭は真面目なんだよ。俺のことをいつも穏やかで、笑顔も多いと言ってくれたが俺も落ち込んだり、自分の人生には一体どんな意味があるのかと悩んだりすることもあるんだ。最近は人生はなるようになると思っている。楽観的に考えるようにしている。」

伸之「坂本にはそれができるんだ。ちょっとうらやましいな。自分にはそれができない。性格なんだろうな、」

恭平「風祭にもできるよ。そう考えるようにするんだ。最近ウエルビーイング(幸せ)について新聞の記事を読んだり、本を読んだりして、ウエルビーイングがこれからの生き方だと思った。ウエルビーイングの考え方で自分が特に共感を感じたのは<自己肯定感>だったんだ。自分はずっと自己否定感を持ってきた。仕事も振り返ってみると失敗ばかりだった。人間関係も上手に築くことができなかった。」

ベンチとテーブルの横の畝ではサニーレタスが若葉を伸ばしてきている。伸之は視線を上げて大空を流れる雲を見ながら坂本の話を聞いていた。

伸之「最近楽しいと感じたことが無いんだ。言った本人がこんなことを言ったら実も蓋もないけど、「楽しい」というのはどんな感じなんだろう」

恭平「自分が経験したことで、一つだけ言えることがある。それは人生の楽しさはどんなにささやかでも自分が人間として成長する、そのことが確かな実感として自分にも感じられるところにあるんじゃないかな。旅行に行って楽しい経験をしたとか、親しい仲間で集まって宴会をして楽しかったとか、それもいいけど、本当の楽しさは自分が人間として成長することができた、そしてそれが人生の最後迄続く。人間として成長するというのは本当に難しいと思う。成長できたと思ってもいつの間にか、元に戻っている。その繰り返しの中で人は成長していくんじゃないかな。ただ成長にはある種の痛み、反省が欠かせない、それがちょっと厳しいところだ。そしてもう一つは自分の殻から出て、人と繋がる、さらには自然と繋がる。その中で<共に>という意識が生きる楽しみになっていくんじゃないかと最近気がついたんだ。」

そう言ってから坂本は手帳を取りだし、ポケットに入っている紙を取り出し、伸之に見せた。1本の木が手書きで描いてある。木の幹から枝が出ている。

伸之「これは何の絵なの?」

恭平「人生の木、の絵なんだ。自分の人生を振り返ってみる時、今迄は子供の時からの人生を山谷で描いていた。自分の人生には山と言えるような成功、目立ったことはなかったから正確に描くとすると平地と谷、ということになるんだろうけど、生まれてから(左側から線を描くんだけど)どうも折れ線グラフではしっくりこない、という感じがしていたんだ。・・・人生ってやはり積み重ねだと思うし、出来事がつながっていると感じるし、それから多くの人達によっても支えられている。そんなことを紙にいたずら描きをしているうちにできた絵なんだ。描いてみて改めて思ったんだ、成長していく中で、なんと多くの枝が折れていたことか、と。それでも上へ上へと伸びている。時々手帳から取り出してみているんだ。気がついたことがあったら書き加えている」

伸之「分かりやすそうな絵だね。見せてもらっていい?」

恭平「風祭さんには特別にお見せします。オレの人生の木のイメージを参考に風祭も描いてみるといい。A4の紙を縦に使って、左側に自分の年代を10歳刻みで書いていく。10代から70代まで。それから真ん中に1本の木を描き、年齢毎に枝を左右に描いていく。左側は自分の生活の枝、右側は自分の仕事の枝、という感じで。自分は20代の左側に2浪、という枝とその上に大学入学という枝を描いた。右側には就職という枝。就職という枝は40代半ば迄伸びている。・・・そして70代。左側の人生の方はウエルビーイングの枝、まだ細い枝だけど、描いている。右側には自分の人生のライフワークの枝を2本描いている。老人ホームに屋上菜園を普及することと、第二の故郷を地方創生のためにつくること。どこまで枝が伸びるか分からないけど、折れないように伸ばしていきたいと思っている。」

伸之「木の上の70代のところに花が咲いているね、それから実になっているものもある」

恭平「自分の人生の本当の花を咲かせるのはこれからだと思っている。自分は大器でなくて小器だけど晩成できたらうれしいね。人生の楽しみは未来にもある。風祭さん、人生の木は時々眺めてみると自分を、距離を置いて客観的に見ることができる。それを親しい友人と人生について語り合う時、この人生の木の絵があるともっと深く、楽しく、自分の心を開くことができるし、それこそ人生を共に生きることができる。」

2人の傍の畝にはサニーレタス、チンゲンサイ、もう一つの畝にはホウレンソウが若葉を伸ばしている。サニーレタスが2人に声を掛けてきた。

「大事なお話に口を挟むようで申し訳ありませんが、木の枝だけでなく、土の中の根にも目を向けて頂けますか。根がしっかり伸びて土の中の養分を吸収しないと木は大きくなれませんし、枝を伸ばすこともできません。この人生の木の絵の中で土は何を意味しているんでしょうか。私たちは根が土から栄養分と水分を吸収して、茎、葉、芽に送っています。土の上は太陽の光が溢れ、明るいですが、土の下には光がなく、暗闇です。私たち植物は光と闇の2つの世界の間で生きています」

2人は突然の問いかけにびっくりして、サニーレタスを見た。サニーレタスは微風に葉を揺らしている。

坂本はサニーレタスに向かって答えた。

「正確な答えになるかどうか、分からないけど、今答えるとするとそれは自分の人生経験ではないかと思います。体験は時間の中で分解されて経験になっていく。その経験が根が吸収する栄養分になるのではないか。私たち人間にとって根に相当するものは考えだったり、意思だったり、感情かもしれない。・・・これでサニーレタスさんのご質問に答えたことになりますか」

サニーレタス「ありがとうございました。良く分かりました。人も私たちと似ていますね」

坂本「また何かありましたら、遠慮なく聞いてください」

坂本は風祭の方を向いて、付け加えるように言った。

「土の中には自分の人生の意味とか役割をつくる経験が蓄積されている。それは自分の中、内面のことだから他の人には見えないし、分からない」

風祭「そうか。自分の内面のことというと、意識している部分と無意識の部分があると言われているが、それが土の世界なんだ。野菜栽培の場合、土を耕したり、天地替えをしたりするけど、人間の場合、それは瞑想だったり、ジャーナリングだったり、カウンセリングだったりするんだ。」

坂本「話がちょっと難しい方向に行ってしまったけど、元に戻して、人生を楽しむ、ということについてブレストを続けていきたいね。いいかい?」

風祭「人生を楽しむためには、どんなに小さく、ささやかでもいいので、人間として成長したことを実感できること、もう一つは自分の人生の木を客観的に眺めて何かに気付き、発見すること。ここまで来たけど、まだあるんじゃないかな。坂本がさっき言っていた自己肯定感も人生を楽しむことではないかな。自分を否定していたら人生を楽しむどころではないも。」

今度はホウレンソウが声を掛けてきた。

「人間の世界は大変ですね。私たちには自己否定感という気持ちはありません。元気に成長して時期がきたら収穫していただく、そして皆さんの健康のお役に立つ。私たちは私たちの特長を大事にしながら自己肯定感を持って畑で頑張っていますよ。」

坂本「3つ目は自己肯定感が人生に楽しみを与えてくれる。ところが自分のような失敗だらけの人生を送ってきた者にはこの自己肯定感を持つというのが、本当に難しい。今朝も俺って本当にダメな人間だな、生きている価値なんかない、なんて思って落ち込んでいたんだ。こんなことを言えるのは風祭、お前にだけだ。最近はこんな風になった時のルールを自分なりに決めている。時間を決めて悩む。そして区切りをつけて後は引きずらない。3分間ルール。2分間は悩む。自分と同じような問題で悩んでいる人がいる。自分はその辛さも知らなければいけない。しかし、3分経ったらスイッチを自己肯定感に切り替える。これは一種の精神的トレーニングにもなるんだ」

風祭「俺の場合はスイッチの切り替えに10分ぐらいはかかりそうだ。俺の方からいいかな。人生を楽しむための4つ目は感謝する、だ。感謝すること、大きなことも小さなことも。最近自分は日記に感謝したことを必ず毎日一つは見つけて書きつけている。昨日感謝したことは、これから自分が取り組むテーマが見つかったことなんだ。まだ何かは言えないが、これで行こうと決めることができた。感謝が人生を楽しむための4つ目のポイントでいいかな。

坂本「同感!いいよ。第5番目はさっきもちょっと触れたが<共に>ということ。今日風祭の畑に来て、風祭と一緒に作業をし、話し、ブレストをした。共に時間を過ごした。そして俺は風祭と久しぶりに会って元気を貰った。うれしく、楽しい時を過ごさせて貰っている。次回会う時には風祭と俺の人生の木を2本並べて話をしたいね。」

風祭「了解したよ。自分は坂本とこの人生を一緒に生きていると思っている。今もそうだが、これからもこの人生を互いに伴走者として走っていきたい。」

坂本「これからもよろしくお願いします。(笑い)

 

夕空の太陽が夕陽となって大空の雲をオレンジ色に染め始めた。巣に帰る鳥たちの編隊が空を横切っていく。夕があり、朝がある。

旧約聖書創世記には「神は、その大空を天と名付けられた。こうして夕があり、朝があった。第二日」とある。なぜ朝があり、夕がある、ではないのか。夕が先に来る意味を風祭は考え続けている。そして思ったことは夕は感謝、朝は希望。感謝を持って一日を終えることによって希望の朝を迎えることができるのではないか、と。

 

坂本はマンションのベランダで植物を育てている。キャスター付きの木枠の箱の中に観葉植物の鉢、ハーブの鉢、多肉植物の鉢、花の鉢、野菜の鉢を置いて、育てている。

そのキャスター付きの木枠を午後2時頃、木枠を室内に移動して仕事をしている書斎のところに持ってくる。午後はやはり疲れが出てくるので、気分転換のための植物がほしい。室内に入れてもコバエなどが飛ばないようにした特別な鉢にしてある。毎日植物に触れていると思わず話かけたくなる。<共に>生きる。本物の、命を持った植物と一緒に生きる。

 

(第24話 了)

屋上菜園物語 Ⅱ 第23話  「老人ホーム カラオケ会」

 

今日は2週間に1回のカラオケ会。食堂兼集会室の大きなディスプレイを見ながら皆で歌う。以前元気な時は仲間を誘ってカラオケカフェに通ったものだ。

普通カラオケカフェでは自分の好きな歌を選んで歌い、仲間は自分の歌いたい歌を探しながらそれを聞いているというスタイルだ。そのやり方を老人ホームでやると時間がかかりすぎるし、また待っている人達も時間を持て余すことになる。ということで職員が皆の希望を聞いた上で歌を選んで皆で歌うというやり方をとっている。

夕食前の午後4時半から6時迄、1時間半、皆で歌って過ごす。

 

今迄はそれぞれ歌詞がプリントしてある本を見ながら歌ってきたが、今月からそれだけではなくナレーションというかイントロの後、皆で歌うというように趣向が変わった。このナレーションは屋上菜園の栽培を担当しているAさんが作ったとのこと。Aさんは既に50曲ほどのイントロを作っている。以前屋上の菜園で一緒に作業をした時、そんな話をしていた。

Aさん「昔、玉置宏さんという司会者が歌の前にイントロを語っていましたよね。

 それで歌手もスッと歌に入れたんではないでしょうか。今はそういう司会者 はいませんね。平成、令和の歌はイントロを必要としないのかもしれません」

 

入居者の皆さんは三々五々集まっていた。皆4時前に席についた。

職員のKさんが皆さんに声をかけた。

「皆さん、それではこれからカラオケ会を始めます。まず 今日歌いたい歌、手を挙げて仰ってください。一応8曲迄としますね」

次々と手が上がった。老人ホームの入居者の皆さんは大体70歳以上だ。ということで選ぶのは昭和の歌だ。

「リンゴの歌」「昭和枯れすすき」「悲しい酒」「チャンチキおけさ」「浪曲子守歌」「涙を抱いた渡り鳥」「恋心」「長崎の鐘」

 

Kさん「『昭和枯れすすき』はイントロ集にはまだ載っていませんので、Aさんに作ってくださるようお願いしておきます。それでは10月のカラオケ会の始まり、始まり~」

Kさんが前口上を言う。「真珠貝のように自分のこころの中に埋め込まれた小さな玉。人の世で生きていく時、私たちが流す涙、苦しみが小さな玉を少しづつ大きくしていきます。それがわが心の歌・・・。それでは出して頂いた順番で歌います。途中で少し休憩を入れますね。3曲歌った後に。」

Kさんは少し声を変えて、イントロを語り始めた。まず「リンゴの歌」

「ああ あの時の貧しさが 懐かしい 空はぽっかり青空で 砂糖菓子みたいな雲が浮かんでいた 街には進駐軍 パンパンなんて呼ばれてた おねえさんたちは なんだか外国のリンゴみたいだった

 おいらはそうさ国産リンゴ あの娘(こ)は可愛い紅玉リンゴ」

皆さんが歌い終わった後、Kさんは少し間を置いて、

 「『昭和枯れすすき』はまだイントロがありませんので、イントロなしで歌いますね。私の両親はこの歌が好きでした。かなり暗い歌なので若い時の私にはちょっとしっくりきませんでしたが、中年になった今、なんとなく分かるような気がしてきました。両親の人生も苦労の連続でした。それでは「昭和枯れすすき」を歌います。」

「昭和枯れすすき」を歌いながら、涙を拭っている婦人がいる。

Kさん「次の「悲しい酒」を歌った後で、お茶を飲みながら、短く休憩の時間をとります。よろしいでしょうか」

皆さん「いいです」

Kさんがイントロ。

「今夜は工場の片隅で 寝ずの番です 独りです 日記のペンをふと止めて 

 テレビを見たら ひばりさん 涙を流して歌ってる  悲しい酒です 私も

 一緒に歌います 私の人生杯も悲しい酒で 溢れてる 泣けるうちは泣けば

 いい そしたら元気が湧いてくる」

段々調子が出てきたのだろう。入居者の皆さんは元気に大きな声で歌っている。

Kさん「それではこれから5分間お茶を飲みながら近くの人とお話ください。

 

あるグループの入居者の婦人が言う。「昭和の歌はあの時代の人生を歌っているような気がするの。私は既に主人を亡くしていますが、「昭和枯れすすき」の3番に、この俺を捨てろ、というのがありますが、主人が私にそう言ったことがあります。こんな俺の人生に付き合わせて申し訳ないと思っている。違う男性と一緒になったらお前ももっと幸せになれたはずだ、って。私、その時言いました。もっと早く言ってくれれば良かったのに。もう手遅れです、と。もっと主人に優しくしてあげればと思うこともありましたが、自分の性格なんでしょう、それがなかなかできなくて・・・」

同じグループの男性がそれに応答した。「昭和の男性の人生は仕事中心で仕事で挫折したり、失敗した時、それを支えてくれる場が無かったように思います。

家には仕事を持ちこみたくないので、また家族に余計な心配をかけたくないのでついつい居酒屋に寄って一杯二杯と飲んで帰宅する、ということになります。酔って帰ると奥さんに嫌味を言われる、そんなことの繰り返しだったように思いますね。」

婦人が答える。「でも夫婦なんだから仕事の辛さを話してくれれば、聞きましたよ。黙っていたら分からないでしょ。」

5分経った。Kさんが呼び掛ける。

「それでは続けます」

次は「チャンチキおけさ」です。

「独りでいるのがたまらなく 木賃宿を後にして 思わず駆けた 裏通り

こころに灯ともすよな 屋台のランプに つい惹かれ 腰を下ろした

オレ一人 熱燗一本頼んだら なんだか少しホッとして 気持ちも一緒

に抜けてった 故郷(くに)じゃ いま頃雪だろう

 

人を泣かせてばかりいて どこで人生間違えた

 

ある男性の入居者は指でテーブルの端を軽く叩きながら歌っていた。「三波春夫、なつかしいなあ」という声も聞こえてきた。

 

Kさん「そういえば最近屋台ってみませんね。昔は屋台のおでん屋なんかをよく

 見かけましたが、今はどうなんでしょう。ある所にはあるんでしょうが。

それでは次は浪曲子守唄。イントロはこうです。

土方土方というけれど 好きでなったわけじゃない 流れ流れの暮らしから 足を洗おうと思ったが その日暮らしが染みついた

オレには所詮無理だった 今じゃ子連れの作業員

お前が学校(ガッコ)に上がる迄 とうちゃん 一生懸命働くよ

ほらほらそう泣くな

 

こっちまで泣けてくらあなあ

 

ある男性の入居者が突然立ち上がった。そして歌っている。最後まで立って歌っていた。

Kさん「次は「涙を抱いた渡り鳥」です。この歌を歌ったらまた休憩しましょう。

 辛い育ちを笑顔に隠し 村の小さな演芸場 声を張り上げ歌います

 あなたのこころに届くよう 思いを込めて歌います

 島から島へ 連絡船の渡り鳥 いつしか生きる悲しみを

 乙女ごころに知りました 知りすぎるほどに知りました

 

あるグループの中での会話。男性の入居者が言う。「どれもいい歌だ。いろいろなことを思い出す。思い出したくないことまで思い出すね。私は瀬戸内海の小さな島の出身なんだが、島の斜面一面ミカンを栽培していた。小学生だったんだが収獲期には朝から夕方迄摘果作業に駆り出された。平地ならともかく斜面での作業は本当に辛かった。その島にも演芸場があり、時々歌手が来て歌っていたな。」

別の男性の入居者が「私は朝起きた時、無性に寂しく、悲しくなることがよくあります。とても生々しい気持ちでどうしようもないんです。そして生きていることに心細さを感じるんです。いつもは我慢しているんですが、今日は思い切ってお話しました。皆さんの中でそういう方はいませんか。私だけなんでしょうか。歌とは関係ない話で申し訳ありません」

同じグループの女性が言った。「私もそういう気持ちになることがあります。最近こう考えるようにしています。齢をとることはいいことだ。なぜなら物事をもっと深く、広く考えることができる。そして物事をもっと深く、広く感じることができる。時に、考えたことを、感じたことを一人で支え切れなくなることがあります。一緒に支えてくれる友が必要です。その意味では何かの深いご縁で私たちはこの老人ホームにいます。友になる人が与えられている、私はそんなふうに考えています。」

Kさんが皆さんに声をかける。

「それでは、今日最後の2曲を歌いましょう。「恋心」「長崎の鐘」です。まず

 「恋心」。イントロはこうです。ちょっと長いですよ。シャンソンです。

ミラボー橋の下をセーヌは流れ

私たちの青春も

私たちの恋も

小さな舟のように 流れていった

もう恋なんてしないと誓った筈なのに

恋なんてむなしくはかないものと

知った筈なのに

なぜか今度こそ本当の恋に生きたい

恋に死にたい

セーヌの流れをみつめながら そう思う私は

愚かでしょうか

 

マビオン通りに枯葉が舞っています

あの人と会った小さなレストランに

灯が点っています

 

あるグループの男性の入居者が言った。「シャンソンと言えば、私は銀座の銀巴里に行ったことがある。当時シャンソンはモダンジャズもそうだったけど若者の間で流行っていた。大学からの帰り道、渋谷の「シャンソンドパリ」に入り浸っていたね。」

 

Kさんがちょっと声を張り上げて皆さんに告げた。

「それでは今日最後の歌を歌います。「長崎の鐘」です。

 

 神も仏もあるものか 神に背を向けて去った人も

いつしか 一人二人と 教会に帰ってきました

 

長崎の鐘よ 鳴れ鳴れ 

鳴り響け

 

悲しみのため 平和のために

 

入居者の皆さんの声が一段と高くなった。途中から鳴き声が聞こえてきた。

ある入居者の婦人が言った。「私は長崎の出身です。爆心地から離れた防空壕の中に居ましたので被爆は免れることができました。でも私の親戚、友人の多くが亡くなりました。その悲しみを抱えながらずっと生きてきました。」

 

ある入居者の男性が言った。「私も長崎です。両親を原爆で失い、幼い頃は孤児院に収容され、父母の愛を知らないまま生きてきました。幸いあるクリスチャンのご夫婦が私を引き取ってくださり、高校、大学迄出させてもらいました。高校の教師になり、社会科を教えてきました。そしてある時、アメリカの軍人カメラマンが撮った、背中に亡くなった兄弟を背負って火葬場の前に立っている少年の写真を見ました。カメラマンの話によればその少年は兄弟を背中から降ろして火葬にした後、一度も後を振り返ることなく立ち去っていったとのことでした。私はその写真を自分の部屋の小さな額に入れ、いつも見ています。その少年のその後の人生はどのようだったでしょうか。一生懸命生きていったと私は思っています。ある意味では私はその少年と一緒に今迄の人生を、またこれからの人生を生きていくのだと思います」

 

その話を聞いた後、誰からともなく、「もう一度『長崎の鐘』を歌おう、と声がかかった。

ディスプレイの音量を少し上げて皆で合唱した。中には指を組んで合掌している人もいる。

職員の一人の高齢者傾聴スペシャリストが最後にこんなことを言った。

「歌はこの世の人々だけのものではないと私は思っています。この世で私たちが歌う時、その歌声は次元を超えてあの世、天国にも届いていると私は信じています。あの世にカラオケ会があるかどうか、分かりませんが、地上と天上で声を合わせて歌っている・・・そんなふうに私は思っています。歌は私たちに確かな希望を与えてくれます。そう信じてこれからも明るく日々を送ってください。それでは最後に皆で声を上げましょう。

「ハッピー カラオケ会」

              

老人ホームの屋上菜園では入居者が集まってダイコンの間引きをしている。

「間引き菜も美味しいのよ」話合っている声が元気だ。11月にはサツマイモ、ジャガイモを収獲する。入居者の皆さんは特にサツマイモを楽しみにしている。

11月にはサラダ菜の本格的収穫が始まる。果物では9月のブドウに続いてキンカンが収穫できる。

 

               *

 

屋上の野菜たちが話している。

サツマイモ「この老人ホームの入居者の皆さんは最近以前にも増して明るくなったような気がする。元気な気持ちで屋上菜園に来てくれているね」

キンカン「サツマイモさんもそう思うかい。そうだとうれしいな」

サツマイモ「ぼくたちが屋上で成長していく姿を見て元気になり、そして収穫の喜びを感じて貰えたら、それはぼくたちにとって本望だと思う。屋上菜園はぼくたちにとって決して楽できる環境ではないけど、それだけやりがいがある。そんなふうに思っているんだ」

 

東京下町の空を夕焼けが真っ赤に染めている。

 

(第23話 了)

屋上菜園物語 Ⅱ 第22話 「スーパーフードードカフェ&ショップ」

 

 ここ神田のあるカフェ。午前11時になるとモリンガの木がカフェの入り口のところに運ばれてくる。モリンガは移動式の木枠でできた菜園セットの中で高さ1メートルぐらいまで成長している。午前11時までビルの屋上菜園で太陽の光を浴びている。出番は午前11時からだ。モリンガの葉は人間に必要な栄養素を90種類以上含むが、もう一つの擢んでた大きな特徴は二酸化炭素(CO2)を一般の木の約30倍吸収し、酸素に変える空気浄化能力を持っていることだ。正に奇跡の木だ。

以下は「スーパーフードードカフェ&ショップ」の素晴らしい可能性に賭けた人達の事業のスタートを記した物語である。

                *

 杉浦は夕方の京浜東北線に乗って神田から浦和に向かっていた。座席に座り、少し身体を斜めにして進行方向の流れていく風景を眺めるともなしに眺めていた。マンション、アパートの建物が多い。そして高層マンションも増えている。ベランダに洗濯物が干してあるのが見える。それぞれの家族の生活が営まれているのだ。それを見ていると杉浦はなぜか不思議な気持ちになる。なんとも言いようのない気持ちなのだ。感情的にはどこか寂しい。この寂しさはどこから来るのだろうか。この寂しさはどこか時代の深い孤立感を滲ませているようだ。しかし皆この東京ビル砂漠で、営々と生活を築いている。一人暮らしの人もいるだろう。この気持ちを的確に表現する言葉を杉浦は電車の中で探し続けていた。杉浦はなんとも言えない寂しさと向き合うために仕事を続けているのかもしれない。そんなふうにも思った。おそらくそうだろう。しかしそれだけでもない。他にも何かあるはずだ。

 浦和では山川に会う。久しぶりだ。山川は山梨県南部で農家をしている。スパーフードを専門に畑で栽培している、ちょっと珍しい農家だ。杉浦が山川に会ったのは5年前だった。それ以来屋上緑化用の土壌資材の製造を山川に委託してきた。その中には屋上菜園用木枠セットも入っている。山川は山の間伐材、竹の利用・商品化にも取り組んでいる。それをキチンとしなければ山は荒れていく、それを何とか食い止めたいというのが山川の口癖だ。

山川は若い時、海外青年協力隊の一員としてフィリッピンで灌漑工事を担当していた。その時モリンガを知ったと話してくれたことがある。モリンガは一般の家庭が生垣的に栽培し、食用にしている、フイリッピン人にとってはごく身近な植物とのことだった。

山川の農園ではモリンガの他にスーパーフード的野菜、植物を栽培している。

モリンガの他にエゴマ、もち麦、ビーツ、雲南百薬、ケール、秋ウコン(ターメリック)、マルベリー、ヘンプシード。山川は収穫して市場に卸すという通常のやり方ではなく、自分の農園を観光農園、収穫農園としても運営している。必要があれば近くの旅館か民宿に泊まってもらう。栄養士、料理研究家と組んで、農園で勉強会、料理会も始めた。こちらの方は主に山川の奥さんが担当しているようだ。ただ現在のところ、農園からの収入では不十分なので、地元の土木工事関係の会社の下で農作業の合間に土木作業をしているとのことだ。出稼ぎには行かない。

 杉浦が山川と最初に会ったのは山梨県のある木材関係の会社でだった。杉浦は都市農業、都会の田園都市化というビジョンを持って、まずは東京、大阪のビルの屋上緑化・菜園化に取り組んできた。山川とウマがあったのは仕事の背景にある世界観・価値観・ミッションに通い合うものがあったからだ。杉浦と山川は30歳の年齢差がある。

杉浦は以前、山川に話したことがある。「齢の差なんて関係ないよ。仕事だからビジネスとして取り組むが、目的は金もうけだけではない。これからの社会を、日本を創るための仕事をしていこう」と。「われわれは理想主義者に見えるかもしれない。だけどそれでいい。そんなアホな人間がいてもいいじゃないか。金儲けだけでは疲れてしまう。まずミッションだ。ミッションアホ」

山川と杉浦は笑い合った。

今回の打ち合わせではスーパーフード実験店を神田に出すための具体的詰めを行うことにしている。小さく始めるというのが基本方針だが、線香花火になってはいけない。幸い杉浦のコネで神田駅から近いビルの1階を安く借りることができる。約5坪ほどのスペースにスタンド式の「スーパーフードードカフェ&ショップ」を開店する計画だ。カフェで出すものは主にスーパーフードドリンク、ショップではスーパーフードの加工食品、ポーラス構造の竹炭、大中小の屋上菜園用木枠セット。このあたりまでは今迄の4人の打ち合わせでだいたい決めている。

 浦和駅改札口を出たところで待っていると、今着いた電車から降りてきた山川が向こうから手を挙げて近づいてきた。改札を出たところで挨拶代わりの握手。

杉浦が言う。「元気そうだね」

山川「元気しか取り柄がありませんよ~。杉浦さんも元気そうですね」

杉浦「元気だけど、最近やっぱり年齢を感じるよ。疲れやすくなったも。もっとも一晩寝れば疲れは解消するので、まだまだ大丈夫とは思っている」

山川「杉浦さんは若いですよ。見た目も体力も」

その日、杉浦と山川はカフェのルノアールで、それからはイタリアンレストランで徹底的に話合った。打ち合わせが終わったのは午後9時だった。午後5時から4時間が経っていた。

話の内容は自分達の店のコンセプトを理解し、協力してくれる顧客は誰か、その顧客にジャストミートする価値提案ができるか、そしてどこまでの損失なら許容できるか、開店時間の設定、それと協力者の確保、の5点だった。

2人は杉浦が用意したビジネスモデルキャンバスに書き込んでいった。

明日は朝から実際に「カフェ&ショップ」を運営する浮城彩花と店長になる飯田綾乃と打ち合わせがある。

杉浦「今日はトコトン話し合えて良かった。それでは明日の打ち合わせもあることだし、そろそろ終わりにしませんか」

山川は武蔵浦和に実家がある。両親は健在だ。今晩は久しぶりに実家に泊まる。

杉浦は武蔵野線で山川とは武蔵浦和で別れ、新座駅で降り、自宅に戻った。

 翌日午前9時から4人の打ち合わせを始めた。神田の「カフェ&ショップ」を予定しているビル5階の会議室、大きな黒板に白い大きな紙が貼ってある。

浮城は管理栄養士として活躍している。ご主人は経営コンサルタント。二人とも50代。飯田は最近までカフェで仕事をしていたが、新型コロナウイルスのためそのカフェは閉店となった。6歳の子供がいるが、保育園に預けることができるようになったので、仕事復帰を目指している。

まずはフリーディスカッションからスタート。司会は杉浦だ。まず浮城から思い、考えを話してもらう。

浮城「私は栄養学的見地から日本人はもっと賢い食事へと考え方を切り替える時期に来ていると思います。戦後食の洋風化が進みましたが、やはり身土不二、地産地消という格言があるように国産の食材による食事、メニューをもっと大事にしなければいけないと思っています。昔の食事に帰れと言ってるわけではありませんが、最近食材の新しい機能性が注目されるようになってきました。自分の健康状態を意識しながら、薬とかサプリメントではなく、食材で身体が必要としている栄養素を摂取するということがますます重要になってきていますが、まだ皆さんの意識がそこまで十分高まっているかと言えば、必ずしもそうでないような気がします。それが残念ですね」

そう言って浮城はポストイットに「賢い食事を」と書いて黒板に貼られた白い大きな紙の余白に貼った。

杉浦に促されて飯田が発言する。

飯田「最近私の家の近くのスーパーの八百屋さんに行くと、有機野菜のコーナ ーがあるんですけど、普通の野菜に比べてやはり高いんですよね。良いとはわかっているんですけど、価格を考えて普通の野菜、それも値引き品を買ってしまいます。主婦はいつも家計のことを考えていますから。お肉とかお魚に比べ、野菜は少し軽く見られているかもしれません。有機野菜の本当の価値が分かるような説明があるといいんですけど」

浮城「最近はお店によっては有機野菜の成分表示を示したり、健康面の効果を カードにして説明するところも出てきたけど、売上向上に実際役だっているのかしら。スーパーフードカフェでも同じ問題が出てくる可能性がありそうね。」

飯田はポストイットに「有機野菜の栄養表示」と書いて大きな紙の余白に貼った。

浮城「スーパーフードの他に一部薬草も加えて、更に差別化を図りたいと思い ます。薬草というと苦いとか変わった味香りがすると皆さん思っているようですが、必ずしもそうではないわ。ちょっと大人の味香りと言ったらいいかしら、そういう薬草もあります。」

浮城は「薬草で味に深み」とポストイットに書いて大きな紙の余白に貼りながら、言葉を続けた。

「杉浦さんと山川さんには申し訳ないけど、私たちの考えをもう少し出させてね。私、思うの。スーパーフードカフェ&ショップの前に来たらお客さんがなにかワクワクするようなものがほしい、と。それとスーパーフードドリンクを欲しがるお客さんはどういう人達かしら。仕事で忙しいキャリアウーマンは朝食を簡単に済ませて職場に行く人が多いから短時間で栄養分を摂取できるスーパーフードドリンクはニーズがあると思う。30代後半から40代後半あたりかな。」

飯田「スーパーフードの場合、どこか言葉の意味があまり解らないまま独り歩 きしているような印象があります。皆さんに共通する栄養素と個々人の健康状態に合わせた栄養素の補給と2通りあるんじゃないでしょうか。後の場合はそういうアプリを開発してそれを見てもらう、というやり方がありそうですね」

浮城「確かに個別対応は必要だと思うわ。アプリの開発と併せて、私が考えているのは目的別ドリンクのメニュー化とカウンセリング。カウンセリングはメールでやってもいいけど、できれば最初はお店でやりたいな。栄養管理士としての私の出番になりそうね。きめ細かい対応がスーパーフードードカフェ&ショップの大きな特徴になるかな。」

飯田「そしてスーパーフードの食材は是非みんな国産にしてほしい。それもできれば有機的栽培。それから話を変わりますが、お店の開店時間はどうしますか。」

浮城「飯田さんのようにできるだけ子育て中の若いお母さんにお店をお任せで きればと思うの。ということで開店時間は午前11時から午後3時まで。準備もあるから飯田さんには午前10時にお店に入って頂いて、片づけもあるから午後4時には終わり、というのはどうかしら。」

女性たちの話が一区切りついたと判断して杉浦が言った。

杉浦「浮城さんが言ったように、ワクワクするようなカフェ、そしてお客さんがリピーターになって来てくれるようなカフェにしたいね」

山川も続いた。「ミッションというか、われわれの魂を込めたカフェ&ショップ。そのためにも今の日本で提供できる最高のスーパーフード食材を使ったドリンクを出そう。ウチの農場も頑張る。お客さんがワクワクするようなお店にするならまず当事者のわれわれがワクワクしないとね」

杉浦も浮城も飯田も黙って頷いた。

杉浦が皆に言った。「われわれもお客さんもワクワクするようになるためのアイデアをドンドン出し合おう。ここが勝負だ。実は黒板に貼ってある模造紙はビジネスモデルをデザインするためのシートなんだ。日本型ビジネスモデルをデザインするために私が独自に作ったもので、この1枚の紙に全て書き込んでいってほしい。」

それから1時間、4人は熱心にアイデアを出し合い、それをポストイットに書き、ビジネスモデルデザインシートのそれぞれのカテゴリースペースに貼っていった。デザインシートがポストイットで埋め尽くされた。

それを皆で眺めた。

その後でビジネスモデルデザインシートを補強する目的で、以下の4点について話合った。

  • お客さんとの関係の中で課題になることは何か最高のスーパーフードを提供し、お客さんとの信頼関係を築くこと、そしてパートナーになって頂く。
  • お客さんに対する重要な実行施策名前を覚え、前回注文内容を記録し、効果についての感想を伺う。栄養士がデータを作成し、ドリンクのメニューをつくる。そしてお客さんがお店のパソコンで自分に合ったドリンクを選べるようにする。
  • 成功するために必要な数字の指標まずやってみて2ヶ月経った時点で設定する。最初は数字は意識しない。
  • 圧倒的な優位性

国産最高のスーパーフード食材とお客さんとの確かな信頼関係。スーパーフードの食材を栽培している山川の山梨県の農場への見学ツアーも定期的に実施する。当面は半年に1回。

最後に締めくくりとして、以下の3点について話合った。

  • 今の自分達にできることは何か

スーパーフードドリンク、目玉はモリンガ、エゴマ油、豆乳、パイナップルのスムージーだ。ショップではスーパーフードの加工食品、ポーラス構造の竹炭、大中小の屋上菜園用木枠セット。

  • どこまでの損失であれば許容できるか

200万円に設定した。損失が出た場合は杉浦と浮城が折半で負担する。

  • だれが全体をコントロールするか。

杉浦と浮城の2人がコントロールを担当することになった。

 

1週間後、4人は開店前のスーパーフードカフェに集まり、ミッションと経営方針を確認した後、開店記念パーティを持った。

杉浦「今日は船に例えたら進水式だね」

浮城「いよいよ大空に向かって飛ぼうとする鳥のヒナみたい。ちょっとドキドキする」

山川「丹精こめて山梨県で育てているスーパーフード食材の東京デビューだ」

飯田「忙しいワーキングウーマンの健康を支える応援団になりたい」

ワインで乾杯した。「一歩一歩前進!」

 開店前日。

カフェの中にはモリンガの木が繁っている。ドリンクを注文したお客さんは待っている間、自由にモリンガの葉を摘まむことができる。またエゴマの葉も。

モリンガの木は山梨県の南の農園から運ばれてきたものだ。午前11時までは屋上で日光を浴びて栽培されている。そして有機栽培。エゴマは島根県川本町から送られてきた苗を屋上菜園で育てている。こちらも有機栽培。 

 

モリンガがエゴマに話しかけている。

「私たちもここのカフェの店員になって4人のチームを応援していこう。私たちが皆さんの健康に役立つことを実感してほしい。そのために身を削られてもいい。かえってうれしいくらい。屋上の仲間ともいつでも選手交代できるようにしてくれているって、杉浦さんと山川さんが言っていた」

  (第22話 了)

屋上菜園物語 Ⅱ 第21話 「紫蘇とマインドフルネス」

花岡伸二は畑のベンチに座った。2時間しゃがんだままずっと雑草を抜いていた。梅雨の晴れ間、畑に来てみると、2週間前、抜いた畝間に雑草がまた生い茂っている。ヤレヤレという気持ちになるが、一方で最近は「なんという生命力だろう」と雑草がいじらしくさえ思える。以前は雑草を見ると、正直イライラしたものだが、最近はそんなこともなく、無心な気持ちで除草できるようになった。雑草を1本1本抜きながら、何も考えていないか、何か考えている自分がいる。今日考えていたことは畑の雑草ならぬ自分の心の中の雑草のことだった。つまり雑念。畑の雑草はこのようにして抜くことができるが、雑念はどのようにしたら抜けるか。齢をとるにつれて取り越し苦労なのだろうが、あれこれ気になることが増えていく。しゃがんだ姿勢の作業は疲れる、立ち上がって背中を伸ばし、伸二は夕暮れの空を見上げ、思わず深呼吸した。夕陽が美しい。

腕時計を見ると午後6時30分。まだ明るいが夕暮れ時になっている。川に沿って農地が続いている。川面と野を渡る風が吹いてきた。暫くその風に身を任せ、作業でほてった身体を冷ました。思わず「気持ちいい」。

自然の涼気は言葉にできない。生き返るようだ。疲れも抜けていく。「できることならずっとこのままいたい・・・」。そして時には畑の風景を見ながら、涼しい風に吹かれながら、穏やかな気持ちのまま、天国に引き上げられたいとさえ思う。そんなことになれば家族が大変だろうが、そんな願いを持つのも75歳を超えたためだろうか。しかし、自分の人生を完成させるためにもまだまだ生きていかなければならない。もう一踏ん張りも二踏ん張りもして、悔いがないようにしたい。

伸二は最近畑に遊びに来る藤田さん家族のことを思い出していた。ご主人も奥さんも40代前半、子供が1人いる。ご主人はIT企業に勤めている。伸二の神田の事務所の屋上に菜園がある。そこで開催した菜園講座がキッカケになって親しくなった。今年の3月から月に2回ほど畑に車で来ている。畑は駅からちょっと遠いところにあるのでやはり車を使うことになる。藤田さんのご主人は口数の多い方ではない。2週間前、畑に来て作業を手伝ってもらった時、ご主人の藤田さんは嬉しそうにこう言った。

「畑にくると元気が出ます。何か開放的な気持ちになれるんです。」

ところが1週間前に来た時は、元気が無かった。休憩時間に皆でベンチに座ってアイスコーヒーを飲んでいる時、藤田さんの奥さんが伸二に、ちょっと言いにくそうにこう言った。

「最近主人が今の仕事を辞めたいと言っているんです」

その言葉をきっかけにして藤田さんが伸二に自分の思いを伝えた。

「今の仕事を辞めてカフェをやりたいんです。・・・花岡さん、働くってどういうことなんでしょう?毎日毎日パソコンの画面ばかり見ていると、どうしようもなくそんな思いが突き上げてくるんです。頭も、心も身体も全部使って人を相手にやる仕事が本当の仕事ではないか、そんな思いが頭の中を過ります」

伸二はそれにはすぐには答えず、夕暮れの雲の流れを見ていた。何故か雲は過去から未来に流れていくような感じがした。そして呟いた。

「本当の仕事・・・ですか」

伸二は自分が現役で仕事をしていた時を思い起していた。「自分は本当の仕事をしただろうか。本当の仕事とは・・・自分はしてこなかったかもしれない」

伸二は空を見ながら言った。

「そうですか、今そういうことを考えているんですね。40代というのはそういうことを考える時期なのかもしれません。そういえば自分もそうだったかもしれないな」

藤田さんは伸二の返事に少し励まされたのか、続けて言葉をつないだ。

「前の会社をリストラされた時、暫く家にいて、これからどうしようかと考えていた時、毎日行くところがないというのは厳しいもんだとつくづく感じました。自分の居場所がない。早く働きたいと思いました。幸い友人の関係で人工知能関係の仕事をしている今の会社に再就職することができたので、その時は正直ホッとしました」

畑での会話は間がとれるからいい。向き合って話すのではなく、ベンチに座って畑の風景を見ながらゆっくり話すことができる。伸二は流れる雲を見ながら、藤田さんの話を聞いていた。

藤田さん「次は自分が好きな、自分を活かせる、打ち込める仕事につきたいと思っているんです。ご存知のように今は会社に一生勤めるという時代ではなくなっています。キャリアを磨いてより良い仕事につく、という時代ですから」

藤田さんの奥さんはお子さんと一緒に家内と一緒にトマトの収穫をしている。時々こちらを見ている。

伸二は藤田さんには顔を向けず、雲の流れを見ながら、言った。

「本当の仕事。自分を活かせる仕事・・・。そのような気持ちになれて良かったですね。それが仕事に取り組む正しい姿勢のように思います。私たちが就職した時代は、一流大学を出て、一流会社に勤める、それが目標になっていました。私の場合は一流会社ではありませんでしたが、一流半ぐらいの会社に就職することができました。早く仕事に慣れよう、そんな気持ちで精一杯でした。ある時期、人材教育の会社からウチに来ないかと誘われました。私もどこかで自分らしい仕事をしたいと思い始めていたんですね。でもやっぱり大きな会社を離れることはできなかった。自分の能力に自信も無かった。・・・昔の時代の話です。そして自分は会社員に向いていないという違和感がたえずありました。かと言って何に向いているかもわからない。・・・今は働き方が昔とは大きく変わってきています。私の経験などあまりご参考にならないと思いますが、雲の流れを見ているとなぜか昔のことを思い出します。そして私たちはどこに向かって流れていくのだろうか、と」

藤田さんも雲の流れを見ていた。

藤田さん「私の思いをご理解くださり、ありがとうございます。長いことパソコンの前に座り続けてきたためか、無性に人を相手の仕事がしたいと思っているんです。」

伸二「その気持ちは分かるような気がします。人を相手の仕事はそれはそれで

大変でしょうが、仕事人生のどこかでやはり人を相手にする仕事は必修科目だと思いますね」

藤田さん「必修科目とはどのような意味なんでしょうか」

伸二「人を相手にする場合、共感力が求められます。相手の立場を理解する力、相手の気持ち・感情をくみ取る力、そして相手が自分に何を求めているかを洞察する力は仕事の世界で生きていくためにはどうしても必要ということで私は必修科目と考えています」

藤田さん「言葉としては分かりますが、今の自分に言われるような共感力がどの程度あるか。心配です」

伸二「共感力は自分の中に作り上げていくものです。日々の心がけが大事です。

私は野菜栽培を通じて野菜から共感力を教えてもらっています。野菜は人間のように言葉は使えません。想像力を働かせることになります。ただ共感力の前にその基礎的部分である『本当の自分を知る』ことが一番大事ではないかと、最近ますます思うようになりました。」

藤田さん「『本当の自分を知る』ですね。花岡さんはそれをどのようにしているんですか。もし差支えなければ教えて頂けますか」

伸二「お役に立つかどうかわかりませんが、私は本当の自分を知るために2つの

ことをしています。1つはジャーナリングです。毎日書いている日記にジャーナリングの箇所を設けています。ジャーナリングとは一言で表現すれば「書く瞑想」です。何も考えずにとにかく書く。自分の無意識に書かせる、と言ったらいいでしょうか。書くことで思ってもみなかった自分の潜在的思いが、そしていろいろな顔を持った自分が浮かび上がってきます。このジャーナリングの内容は自分だけのものです。他人に見せるものではありません。そしてジャーナリングで浮かび上がってきたことに対して良い悪いの評価はしません。そのまま受けとめます。もう一つは自分の中のもう二人との対話です。一人は賢明なもう一人の自分、あとのもう一人は人生を楽しんでいるもう一人の自分です。私は夜寝る前にこの2人に今日一日のことを話します。こんなことがあった、こんな風に思った、などと。報告する私は「今、ここを生きている自分」です。寝る前に日記を書き、布団に横になったら3人の対話です。そしていつの間にか眠っています。対話が思うように進まない日もありますが、あまり気にしないことにしています」

藤田さん「ジャーナリングという言葉は初めて聞きました。花岡さんはどのようにしてジャーナリングを知ったんですか」

伸二「私は以前から日記を書く習慣がありました。自分の悩み、不安定な気持ちを日記に書きつけました。今自分はこんなことで悩んでいる、不安定な気持ちでいる。一種のストレスですね。どこかに自己憐憫的なところもありました。でも書くことによって落ち着くことができました。でもそれは自分が意識していることを書いていたんですね。だから考え、考え、そして書いていました。また瞑想しても雑念が次から次へと湧いてきて無念無想の境地には入れません。ある時本屋でジャーナリングについて書かれた本を見つけました。立ち読みして「これこそ自分が探していた本だ」と直感し、購入しました。読みながら嬉しくなりました。何も考えずに書くことによって私の場合は無意識の世界に入ることができつつあります。ジャーナリングで書いているうちに、思ってもみなかったことが次から次へと出てきます。うれしい発見もありました。自分の会社にはフロンティアという名前がついていますが、最近ジャーナリングをしている時に自分にとってのフロンティアの意味が「そういうことだったんだ」という思いで腑に落ちました。希望と覚悟が与えられました。

私はこれからもずっとジャーナリングを続けていくつもりです。今迄自分を変えようとして沢山の自己啓発書を読んできましたが、やはり無意識の世界の自分も含めて自分の本来の姿を見る、見続けていくことが大事だと思います。そしていつの間にか変わっている、少しづつですが変わり続けている自分にある日ある時気付く。中途半端な人生を送ってきた私ですが、ここに来てやっと自分の生き方が見えてきたように感じます。これは正直うれしい体験でした。」

藤田さん「そうですか。私も自分の生き方を知りたいと思っているんです。ジャーナリングのやり方を教えていただけますか」

伸二「わかりました。次回来られた時にその本をお貸しします。これからジャーナリングの友として一緒にやっていきましょう」

藤田さん「それから自分の中の3人の対話についても教えてください」

伸二「ジャーナリングを習得された後、3人の対話についても説明しましょう。一つ一つ、ですね。最近私は人間が人生を完成させるためには、自分を知ること、人を知ること、そして自然を知ることが大事だと思っています。この知るというのは最終的には大きな存在に触れる、ということです」

藤田さん「大きな存在・・・」

急に雲の動きが速くなってきた。風も吹いてきた。

話が一段落してから伸二は畑のあちらこちらで大きく成長している紫蘇を指さし、言った。

「あそこにこんもりと緑のかたまりがありますね。紫蘇です。種を播いた記憶が

ないんですが、畑のあちこちに紫蘇のかたまりがあります。種を播いた記憶がありませんから、肥料を与えた記憶もありません。それなのに畑のあちこちで紫蘇は元気に成長しています。本当に逞しい野菜です。他の野菜のように世話をされなくても大丈夫、と言っているようです。紫蘇は雑草に近いのかもしれませんね。

私は紫蘇を見ていると人に関心を持ってもらわなくても育つ、特に世話をしてもらわなくても大丈夫という生き方を見て、人間の生き方を考える上で、教えられることがあります。他の人から関心を特にもたれなくても、助けてもらわなくても生き抜き、そして結果的に人の役に立つ、という生き方です。紫蘇は大きな自然の中にもある大いなる力によって生かされていることを知っているのではないでしょうか。」

藤田さん「紫蘇を見直しました。そうでありながら、結果的に役に立つ、というのはどういうことでしょうか」

伸二「紫蘇にはβ-カロチン、ビタミンE、ビタミンK、カリウム、カルシウムが豊富に含まれています。また紫蘇の実油にはα-リノレン酸が含まれていて、老化防止に効果があると言われています」

藤田さん「紫蘇は薬味的使われ方をすることがほとんどですので、食べるとしても少量ですね。」

伸二「確かにそうですね。ところが最近わが家では紫蘇を沢山食べていますよ。

餃子の具として使ったり、お刺身の魚を紫蘇で巻いて食べたりしています。なかなかイケますよ」

                *

ある満月の夜、北千住のビルの屋上菜園でトマトと紫蘇が会話をしていた。

トマトは今日の午前に屋上菜園に定植されたが泣きべそをかいていた。

「昨日まで普通の畑にいました。それが今日、このビルの屋上菜園に連れてこられて植えられました。こんなに薄い土で、風が強いところでこれから生きていかなければならないと思うと悲しくなります。元の畑に戻りたい。・・・紫蘇さんは前からここにいるんですね。どうしたらこの屋上菜園で生きていけますか?」

紫蘇は答えた。

「私も最初種で播かれた時は土は薄いし、太陽光で土は熱くなるし、おまけに世話をしてくれる人は週1回しかこないし、生きていけるか正直不安でした。トマトさん、トマトさんは人があれこれと世話をしてくれますが、私たちは殆ど世話をしてもらえません。だから人に依存しないで、できる限り自分の力で生きていく、と決めました。そう思い定めるまでちょっと時間がかかりましたが、覚悟ができました。・・・ところがある日飛んできたモンシロチョウさんがこんなことを教えてくれました。

「紫蘇さんは野菜さんたちが屋上を吹く風で傷めつけられないように、野菜さんたちを守るようにして防風林のように並んでいるんですね」

屋上菜園で以前のように地域の子供たち、家族が来て種を播き、苗を植え、収穫する光景がまた見られるようになってほしい。都会の子供たちは野菜が育つ姿を見る機会が少ない。野菜がそれぞれ成長する姿を見て、何かを感じてほしい。野菜に触れ、ブドウに触れて笑顔一杯の子供たち。

紫蘇はあたかも喜ぶかのように夜風の中でゆっくり揺れている。

                              (了)