第二の故郷物語 「親孝行プレゼント」(その2)
二日目夜
夕食は旅館謹製の高齢者向け特別料理で、採れたての色とりどりの野菜、山菜がふんだんに使われている。天麩羅の盛り合わせ。湯葉、椎茸などの具が盛りだくさんのうどんすき。おやき。あわぜんざい。りんごジュースに玄米茶。
東条様ご夫妻は全部召し上がった。「料理は美味しいというのがまず第一だが、食べて幸せ、というのが最高だね。今晩は本当に幸せだった」ご主人が奥様に顔を向け、きみはどうだい、と言う感じで促している。「私も幸せでした。こんな心づくしのご馳走が頂けるなんて、幸せです。それに何か身体の中がスーッと爽やかになったみたい」「さっそくデトックス効果が出たんじゃないか」
夕食後、東条様ご夫妻はしばらくテレビをご覧になっていた。お二人でよく見ている番組とのこと。時間を見計らって、マッサージ室にご案内する。まず足湯に使っていただき、しばしリラックス。身体も温まってきたころ、マッサージを始める。ご主人には中国気功整体、奥様には美容整体。それぞれ50分コース。今日一日の疲れがとれることを願って。
マッサージの後は歌の時間。お二人に「心の歌」を歌っていただく趣向。ご主人からは「喜びも悲しみも幾年月」「影を慕いて」「霧にむせぶ夜」奥様からは「恋心」「蘇州夜曲」「水色のワルツ」が自分の心の歌との連絡を頂いている。
司会は「地域コミュニケータ」の坂本さん。観客は従業員でカラオケセットも担当。
坂本さんが始める。「真珠貝のようにこころの中に埋め込まれた小さな玉。人の世で生きていく時、私たちが流す涙、苦しみが小さな玉を少しづつ大きくしていきます。
そしていつしか輝きを増していきます。それが我が心の歌なのでしょう。」
それではご主人からどうぞ。
坂本さん、ナレーションを始める。
・・・灯台守は
船に光を送り続けます
灯台守は家族だけの世界
妻は不自由な暮らしに耐え
子供達を育ててくれました
人並みの楽しみを味わわせて
やれなかった 妻よ 子よ
黙々と仕えてくれた妻よ
お前がいなかったら
俺はこの仕事を続けられなかった
妻よ お前こそ
俺という船の灯台だった・・・
それでは東條様のご主人、どうぞ。
ご主人は出だしでちょっとつまづいた。涙を拭った後で歌い始めた。坂本さんが励ますように途中まで一緒に歌った。
次は奥様、恋心です。
坂本さんのナレーション。
・・・ミラボー橋の下をセーヌは流れ
私たちの青春も
私たちの恋も
小さな舟のように
流れていった
もう恋なんてしないと誓った筈なのに
恋なんてむなしくはかないものと
知った筈なのに
なぜか今度こそ本当の恋に生きたい
恋に死にたい
セーヌの流れをみつめながら
そう思う私は
愚かでしょうか
マビヨン通りに枯葉が舞っています。
あの人と会った小さなレストランに
灯がともっています・・・
奥様は岸洋子になったかのように表情たっぷりに歌われた。
歌声と共に夜は更けていく。
ご主人も、奥様もそれぞれ3曲歌った後、歌にまつわる思い出を語り始めた。
坂本さんと従業員は相槌を打ちながら聞いている。
午後9時半。明日もありますから、お二人の歌謡ショーは盛り上がってきましたが、そろそろ幕を下ろさせていただいたいと思いますが、宜しいでしょうか。
「おやおや、こんな時間か。あまりにも楽しくて時間を忘れていたよ。長時間、お付き合い頂いてありがとう。」「本当に楽しゅうございました」
坂本さんは「明日は9時に伺います。それではゆっくりお休みください。それからお休みになる前にお薬を飲んでくださいね。」と挨拶して部屋を後にした。
「今晩東条様ご夫妻はなかなか眠れないかもしれない。寝物語にいろいろお話されるのではないかしら」坂本さんは女将に今日一日の報告書を出して家路についた。
電気を消した暗い部屋の中でご主人の声がしている。
早苗。今日は楽しかった。君と一緒にこんな旅行ができるなんてまるで夢のようだ。ぼくは今日、今迄なんて君を大事にしてこなかったか、本当にわがままな自分勝手な人間だと思ったよ。・・・許してほしい。これからは少しは優しい夫になりたいと思う。ぼくと結婚して幸せだったと思ってもらえるように心がけます。
これからもどうぞよろしく。早苗さん・・・お休みなさい。
三日目
雨の音で東條様の奥様は目をさました。庭の木の葉を雨がやさしく叩いている音が聞こえてくる。「今日は一日雨かしら。2日間ちょっと忙しかったから、今日は旅館でゆっくりするというのもいいわね」奥様はこの2日間のことを振りかえっていた。まるで家族のように迎えてくれている女将さんと旅館の従業員の人たち、「地域コミュニケータ」の坂本さん、親切にしてくださった地元の方たちともあと1日でお別れ、何か胸にこみあげてくるものを感じる。
「起きているのか」ご主人が頭を奥様の方に向けた。「はい、今目を覚ましたところ」
「朝食前に近くを散歩しないか」「雨が降ってますよ」「いいじゃないか、相合傘で行こうよ」旅館の案内図の中に散策路が紹介されていた。
東條様ご夫妻は着替えて「ちょっとそこら辺を散歩してきます。小1時間というところかな。朝食は8時にお願いします」奥様はご主人の腕にすがり、ご主人が傘をさしている。「行ってらっしゃいませ」
「若い頃、こうして2人で腕を組んで銀座を歩いたわね。デートだっていうのにあなたはいつも遅れてきたし、それに仕事の話ばかりしてたわ」
「何を話したらいいのか、分からなかったんだ」
「愛しているよ、なんて一回も言ってくださらなかったのよ」
「そんなこと思っていても、口に出せなかったよ」
「ほんとに思っていたのかしら」
「思っていたさ」
「私のこと、そんなに好きじゃないのかしら、って寂しかった。母に明彦さんはデートの時いつも仕事の話ばっかり、いやになっちゃうわ、と言ったら叱られたわ。母は「真面目で不器用な人かもしれないけど、一途なところがあるのよ、明彦さんは。これからはあなた次第よ」って言われたわ。」
「あれから45年か。長いといえば長いし、昨日のことでもあるような気もするし。長いこと本当にありがとう。でもぼくは君にとって良い夫ではなかったんじゃないかな。それほど出世もしなかったし、金持ちにもなれなかった。自分のことで精一杯という生き方をしてしまった。」
「あなたの定年退職の日、家に沢山のお花が届いたわね。その時、あなたが会社でどんな存在だったか、分かったの。嬉しかった。あなたの人間性を多くの人たちが認めてくれていたんだと」
「そんなことがあったね。でも君がお父さん、お疲れ様でした、と渡してくれた花束が一番嬉しかったよ」
「あの晩、お父さんはわたしの前に正座して、本当に長い間ありがとう、と言ってくれたわ。こんな私を支えてくれたことを感謝しています、って」
「あれから2人であちこち旅行に行ったね。会社勤めの時はどこにも連れていってあげられなかったからね。どこが一番想い出に残っている?」
「今度の旅行かしらね」
「お父さんね、私今でも思い出すと幸せな気持ちになることがあるの。あれは私が65歳を迎えた時、健康診断で乳癌の疑いがあるということで、池袋の癌研の病院で検査して貰った時、手術することになったわよね。そのことをお父さんに話したら、「大丈夫、きっと直る」と言って、私のことを一晩中抱いてくださった。あなたの身体の温もりをあの時ほど感じたことはなかったわ」
「君のことがいとおしい、心底そう思ったんだ。」
「この人生、2人でいろんな思い出をつくってきたわ。辛く、悲しいこともあったけど、あなたと2人で作ってきたのよ。他の誰とでもないわ。これからも素敵な思い出を一緒に作っていきましょうよ。私の素晴らしい、だけど時々ちょっと依怙地になる旦那様」
雨は上がり、青空が見えてきた。木々の葉がみずみずしく光っている。
「旅館に戻る時間だよ」
「いやよ、まだ戻りたくない」
朝食の時間。東條様の奥様のご希望メニューは、牛乳、焼き芋、ゆで卵、ごはん、味噌汁、青菜の漬物、食後の果物(みかんとぶどう)。香川栄養学園園長香川綾さんの四群点数法で香川さんが自ら実践している食事で、香川さん自身90歳を過ぎても現役で活躍している。
香川さんは「三食とも大事ですが、栄養学的には朝がいちばん重要です。不足している栄養分を補充して、身体をリフレッシュさせ、一日のスタートをきる。これが自然の理にかなっています」と言っている。
東條様の奥様はこれから香川先生の食事法をご主人とご自分の健康のため始めたいと思っていたが、なかなかキッカケが掴めずにいたので、今朝の朝食に期するところがあるようだ。「牛乳、焼き芋、ゆで卵が主食なんですよ。ごはん、味噌汁は副食。ちょっと変わっているでしょ」
「昨年、私も主人も病気をしましたの。もう少し、2人で人生を、健康に過ごしたいと思いまして、高齢者の健康法を調べているうちに香川綾先生の料理法に行き着きました」
ご主人は旅館特製の朝食を食べている。グジの焼き物、味噌汁、エイひれ、岩海苔、野菜物3種。大根の葉とちりめんじゃこのおひたし。レンコンとふきとがんもどきの炊き合わせ。そして大和芋のすりおろしたもの。最後に野菜ジュース。
お二人は食事をしながら今日の予定の打ち合わせをしている。
午前中は近くの漁村にいくことにした。お昼はそこで浜鍋を頂いて、その後海辺を散歩。旅館に戻ってきてから、旅館の隣にある陶芸教室で夫婦茶碗をつくり、夕食迄の時間、ゆっくりと温泉に入る。夕食後、旅館の車で星が丘に向かい、星見物。ここは星がとてもきれいに見える場所とか。
若い時は太陽が昇り、中年期には太陽が頭上の中心に来て、老年期は素晴らしい夕焼け。太陽が沈み、夜がやってくる。日中は全く見えなかった星星が夜空に一斉に輝く。空一杯の星を眺める。これは高齢者の特権かもしれない。
星見物から戻ったら、マッサージしてもらって、後は部屋でくつろぐ。「地域コミュニケータ」の坂本さんが、明日の晩はちょっと特別なことがありますよ、と言っていた。「何かしら、楽しみだわ」
朝食後、坂本さんが来た。
「坂本さん、2人でこんな計画を立てたのよ。どうかしら。」
「とてもいいですよ~。今日は写真を沢山とりましょうね。お見受けしたところお二人
ともとても元気そうですよ」
坂本さんに案内されて車で、漁港に向かう。車で30分。汐の香りが濃くなってくる。港を散歩してから、予約しておいた割烹旅館で浜鍋を頂く。お店の人は「鯛とか、ひらめも美味しいですけど、本当に美味しいのは岩礁についた海藻を食べている小あじとか赤べらとか、そういう小魚なんですよ。都会の人たちはご存知ないかもしれませんが、養殖物とは全然違います」
「坂本さんもご一緒にいかがかしら」
「そうそう、気がつかなくて失礼しました」
昼食の後、漁師の三崎さんのお宅に伺い、お話を聞く。
「ぼくも実は漁師になりたいと思った時期があったんだ。海原を見ながら生活したい、そう思った。」小女子の佃煮と玄米茶を三崎さんの奥さんが出してくれた。
旅館に戻り、暫し昼寝。
坂本さんは午前中の出来事を携帯電話で報告している。