第二の故郷物語 第1話 「足を地につけて生きる」
社内がざわついている。バブル時代に入社した50歳以上の社員を対象に大規模なリストラが実施されるという。会社の業績は好調なので、まさかリストラはないと大方の社員は思っていたが、会社のトップの考えは甘くなかった。
50歳を過ぎた中橋次郎は心穏やかではなかった。入社して以来、ずっと営業マンとして働いてきた。夜の付き合いもあり、帰宅時間は遅くなりがちで、夕食を家で食べるのは午後10時以降が多かった。気になっていたのは定年退職後の仕事のことだった。以前から何か資格を取りたいと思っていたが、勉強時間がなかなかとれない。仕事は食品工場向けの製造機械の販売だった。ツブシの効く仕事ではない。
妻の直子がある晩、夕食の時、心配顔で次郎に言った。
直子「今日テレビで放送していたけど、バブル時代に入社した人たちのリストラがいろんな会社で始まっているんだって。あなたの会社、大丈夫?」
次郎「実は今会社の中でリストラの噂が流れている。ひょっとするとオレも対象になるかもしれない。53歳でリストラかぁ。」
直子「リストラされたらどうするの?ウチはまだまだおカネがかかるのよ。住宅ローンもあるし・・・」
次郎は2年前から営業開発部に所属し、役職は課長だが、部下のいない課長だ。顧客との長い関係もあり、そう簡単にはリストラされるとは思っていなかったが、会社は今迄のような「足の営業」をやめてITを使った営業に転換させるという話が次郎の耳にも入ってきた。
そんな時、会社の人事部から研修についての通知が各部に配布された。営業開発部長が判を押した通知が営業から戻ってきた次郎のデスクに置いてあった。読んでみると来月千葉県いすみ市のサテライトオフィスで研修があるとのことだった。研修を担当しているのは「第二の故郷」という一般社団法人で、研修期間は1週間。全部で研修項目は5つ。研修は午前中、午後は自由、土日は午前、午後とも自由。日曜日の昼食を食べて終了、となっている。自由時間の過ごし方の案内も添付されていた。農作業への参加もある。
農作業への参加、地元の人達との交流は「地域コミュニケータ」が担当しているとのこと。
宿泊は民宿。今回の募集人員は15名。対象は50歳以上55歳まで。
研修は以下のような構成になっていた。それぞれ専門の講師が出張して担当している。
- マインドフルネス
- 共感能力の形成
- チームビルディング
- メンタルレジリエンス
帰宅後、次郎は直子に研修に参加するので、1週間家を空けると話した。
直子「それってリストラ候補者向けの研修会じゃない?」
次郎「多分そうだろう。会社はそうかもしれないけど、オレは自分の長いサラリーマン生活を見直し、区切りをつけるために参加しようと思っている」
直子「あなたがそういう気持ちなら私はとめないけど、なんか心配だわ」
次郎「ありがとう。いずれこういう時期が来るとは感じていたんだ」
2週間後朝7時頃、次郎はいすみ市役所近くの川の土手を歩いていた。研修のための宿舎は大原駅近くにある民宿だ。古民家を改修したもので、1人1部屋。今回の参加者は全部で15名なので、3軒の民宿に分宿した。朝食は午前8時。研修会場はオープンカフェのような施設だ。大きな窓からそよ風が入り気持ちいい。
研修は午前9時に始まり、12時に終わる。午後は独りで過ごしてもいいし、講師が3時迄いるので講師と話してもいいし、またグループを作って話し合ってもいい。
次郎は研修1日目は独りで市役所の近くの竹林の多い里山のような場所をゆっくり歩き回った。2日目は研修の後、席が隣同士だった参加者の山上さんと研修施設のカフェで共感能力について話し合った。山上さんは海外関係の仕事をしている。同じ会社だが面識はなかった。
次郎「共感は相手が感じている気持ちを自分のことのように感じることだ、と講師の先生は言ってましたが、われわれが営業で相手のニーズ、ウオンツを嗅ぎ分けるのとどこか共通するところがあるんじゃないでしょうか」
山上「そうかもしれませんね。ただ私なりの理解は営業の場合は話すことが中心になりますが共感の場合は聞くことが中心になるのではないでしょうか。そして共感の場合は同じ価値観、目標を自分事として受け止め、チームの一員として、モチベーションを高めていく、ということもありそうです。今後は後者の共感も重要になるのではと私は思っています。」
次郎は山上が真剣に共感形成について考えていることに気付き、それ以降はもっぱら聞き役に回った。
今日は3日目。メンタルレジリエンスの研修。挫折、失敗に直面してもめげずに前に進んでいくにはどうしたらいいか、がテーマとのことだ。
早朝の川の土手から山に向かって畑が広がっている。手前はダイコン畑。その先にビニールハウスがある。少し坂を上ってハウスのところに行ってみた。
「そうか、ハウスの中ではイチゴが栽培されている。イチゴは温度管理をすれば晩秋になっても実を付け、収穫できるんだ。」
次郎は今来た道を戻りながらダイコンをもう一度見た。その瞬間気付いたことがある。それは次郎には思ってみなかった気付きだった。
次郎は小さく叫んでいた。
「おれはそれなりに大きな会社で栽培されたイチゴだったんだ。温室育ちの、なんやかんや言っても会社によって守られていた存在だったんだ。ところがダイコンはどうだ。山の吹きおろしの斜面で雨風にあたりながら生きている。大地と空の間で背筋をピンと伸ばして生きている。」
次郎は思わずダイコンに言った。
「成功するか、失敗するかは二の次だ。オレも大地にしっかり足をつけて歩いていきたい」
次郎は帰宅後、直子に伝えた。
「いすみ市はいいところだ。気候もいいし、食べ物もうまい。俺たちの第二の故郷にしたい、そんな気持ちになったよ。」 直子は次郎の久しぶりの笑顔に思わずでかかった言葉を飲み込んだ。
(完)