世的な人の聖書解釈・後事を託すリーダーの思い
ルカの福音書22章では過越しの食事(最後の晩餐)、パンと杯による新しい契約、弟子に対する王権授与、シモンのためのイエスの祈り、オリーブ山でのイエスの祈り、そしてユダの裏切り、イエスの逮捕、ペテロの裏切り・・・と大きな出来事が続く。
さてオリーブ山での祈りの前にイエスは弟子達に言う。
「それから、弟子たちに言われた。『わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。』彼らは言った。『いいえ。何もありませんでした。』そこで言われた。『しかし、今は、財布のあるものは財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。』
教会の説教ではこの剣の個所については攻撃のためではなく防御のための剣が必要であることをイエスは弟子達に諭した、と説明される。私もその解釈で間違いないと思うが、なぜ防御が必要になるのか、この世的に考えてみたいと思う。
イエスの名声が地域にあまねく広がっていた時には伝道旅行は人々の好意を受けながら順調に進んでいたことだろう。イエスの弟子として福音を伝える弟子達は行く先々で歓迎され、食事を提供され、また無料で宿泊することもできたはずだ。身の危険を感じることもなかったと思われる。しかし今やイエスに対する民衆の期待が失望に変り始め、神を冒涜した罪でイエスを逮捕しようとしている。民衆がイエスに求めたのは「罪人の救い」よりもイスラエルをローマ帝国の圧制から解放してくれる政治的指導者であり、現実的な政治的独立であった。弟子達にもそのような思いが根強くあった。
病気を治し、悪霊を追い払い、さらには死者を生き返らせる。5千人の食事を用意するなどの奇跡を起こすイエスに、イザヤ、エリヤなどの預言者を越えるまさに超人的な能力を目の当たりにした民衆。その民衆が「今度こそ」という気持ちでイエスにイスラエル王国の再興を期待したのは当然の成り行きだった。しかし、再興されるイスラエル王国で重要な地位に着くことを願っていたと思われる現実主義者のユダにとって「話が違う」というような展開になっていた。失望は落胆さらには怒りにさえなっていったと思われる。それが裏切りを惹き起こしたのかもしれない。私はユダはイエスに口付けする時に「十二軍団よりも多くの御使い」がやってくるのを最後の最後迄期待していたように思えてならない。
さてイエスはイザヤ書を引用し、「彼は罪人たちの中の数えられた」と弟子達に告げた。
自分は罪人の一人として逮捕され、処刑される。それでも、私の弟子であるあなた方は今までと同じように伝道旅行に出て、私の福音を伝えてほしい。人々は今までのように好意的にあなた方を迎えることはないだろう。場合によっては怒りのためにあなた方を剣で傷つける者もいることだろう。しかし、それでも私の福音を伝え続けることが私の弟子としてのあなた方の務めなのだ。それをやめてはならない。困難な、それこそ生命がけの伝道旅行になる。剣で防御すると言っても相手が数人で襲い掛かってきたら防ぎようがないだろう。あなた方が持つ剣は生命掛けの伝道旅行のシンボルとして持っていきなさい。実際に剣をふるってはならない。
イエスは困難が予想される後事を託すために涙を湛えて弟子達に対し、必死の覚悟を求めた。それが二振りの剣の意味ではないか。
世的な考え方をする私の解釈である。