キリスト教のアップ・デートについて(1)
「青空としてのわたし」を書いた山下良道師は仏教3.0へのアップデートを提唱されている。師は「ワンダルマメソッド」を日本仏教のそれぞれの宗派の人たちにやってもらえたらそれぞれの宗派の大事にしているものが本当にリアルに感じられるようになると言われる。ポイントは意味が分かり、リアルになるということのようだ。
また宮城県通大寺住職の金田諦應師は移動式の喫茶店「カフェ・デ・モンク」を運営しながら被災者の話に耳を傾け、その心に寄り添い続けている。モンクとは英語でいう僧侶であり、被災者からの文句を聞き、一緒に「悶苦」するという意味だそうだ。金田師は仏教、キリスト教など宗教の垣根を越えた臨床宗教家の集まりも主催している。私はここ数年NHKのこころの時代を出来る限り視聴するようにしている。それぞれの宗教が人々の救いのために努力していることを教えられる。
さてキリスト教の世界ではどのような動きがあるだろうか。私が関心を持っているのは、最近の新約聖書の研究だ。米国では共観福音書の中でイエスが確かに語ったと思われる言葉の抽出作業が行なわれている。カトリックの司祭であるヘンリ・ナーウエンの数々の著書は「霊性」の重要性を気付かせてくれた。同じく日本のカトリック司祭井上洋治氏は「南無アッバ」の祈りを捧げる。そして「私は、まず、この人間としてのイエスさまの魅力とすばらしさを伝えていくことによって、日本の人たちとの、いや現代の人たちとの対話が可能になると思う」と述べておられる。
日本のキリスト教には「多文化共生」を受け止め、「公共性」を獲得すべきことが指摘されているが、それはどのようにして実現されるのだろうか。仙台バプティスト神学校校長の森谷正志氏は「日本の文化に対立的に対応するのではなく、むしろ福音は日本の文化を完成するものとして取り組む」ことを示唆されている。まことに勇気のある見解だ。
日本のキリスト教が「公共性」を獲得しつつ日本の文化を完成する方向に一歩を踏み出すことができなければ、恐らくキリスト教の将来は無いであろう。その鍵を握るのは日本社会で少数者として生き抜いてきたシニアのクリスチャンたちではないかと思う。
金田師は仲間と一緒に人々の生死の現場に立ち、人々の声に耳を傾け、対話を続けている。
キリスト教は御言葉を伝えることを最重要視する。どうしても「教える」という姿勢になりがちだ。それでは限界がある。帰納的アプローチが必要だ。