阿久 悠・作詞家憲法15か条より

阿久 悠の作詞家憲法を折りに触れて読む。この15か条憲法は作詞家にとってのマーケティング理論であり、作詞活動をビジネスとして捉えた阿久独自のビジネスプランでもあり、私達にとっても大いに参考になる。

阿久は時代と正対し、時代の飢餓感に向ってボールを投げ続けたヒットメーカーだ。今回読んで特に触発されたのは14条と15条。

14条にはこう書かれている。

「時代というものは、見えるようで見えない。しかし時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか見えるのではなかろうか。」

この14条を読んで私が頭をひねるわけは2つある。一つは時代の何が見えたらその時代が見えたことになるのか、もう一つは正対するとはどのようにすることなのか。最後の15条に「飢餓感」とある。恐らく時代の飢餓感が見えたら時代が見えたことになるのだろう。それでは正対するとは?明治大学の阿久 悠記念館には阿久の書斎が再現されている。この書斎で阿久は時代と真正面から向き合っていたのだ。私が一つ気がついたことは、阿久は新聞を丹念に読んでいた、ということだった。新聞という窓から時代を見ていたと考えられなくも無い。勿論新聞だけではないだろう、街に出かけ、人々の様子、表情も見たはずだ。ここで重要なのは阿久の視点だ。1~15条の中に阿久の視点が垣間見える。

そしてここから先は私の問題となる。そういう私は時代に向き合っているだろうか。斜めに構えて、ではなく、まっすぐ時代の相貌を見ようとしているか。私の視点は時代に向き合うだけの力と射程を持っているだろうか。

私の時代を見る方法論は今のところ、時代が届ける断片的情報を自分の中で咀嚼し、自分なりに料理したものを発信することとさまざまな分野の人達と対話をする、というところにある。しかし、まだ時代の飢餓感がはっきりとは見えていない。そんな自覚がある。しかしその飢餓感が私に接近していることは何となく感じる。だが、まだ飢餓感には命中していない。もっと近づき、真ん中を見つけ、そこに確実にボールを命中させる腕も磨かなければならないようだ。