キリスト教の難しさ イエスの孤独と弟子達の無理解

このブログでも以前書いたことだが、新約聖書を読むと、イエスと弟子達の間にある決定的な違いが最後迄続いていたことが分る。単純化して言えば、弟子達はローマ帝国の支配化にあったユダヤの政治的解放を神の子、イエスに期待していた。それは民衆もおなじだった。一方イエスは父なる神の御心、つまり神に背いた人々、それが罪ということになるが、その罪の赦しのために、神との和解のために自分の生命を捧げることを最終目的にしていた。罪赦された者は天の御国で永遠の生命を頂いて神と共に生きることができることを伝えた。イエスは自分が天から来たものであることを人々に分らせるために数々の奇跡を行なったのかもしれない。しかし、人々は今ここの地上的苦しみから目を天に向けることはできなかった。当時はローマ帝国の支配、各地域の政治的支配者からの圧迫、さらに宗教的指導者層の差別の下で人々は苦しく、希望の無い生活を強いられていた。人々はそれらの三重の圧迫から自分達を解放してくれるメシアをイエスに期待していた。期待を裏切られた弟子たちが、また民衆がどのような態度を取ったか言うまでもないだろう。

私はヨハネの福音書の最後の晩餐のところを読む度に、イエスの深い孤独感とそれでも弟子を愛し続けようとする思いに胸が締め付けられる。弟子でさえもイエスがなぜ十字架にかからなければならないのか、十字架の彼方に何があるか、全く理解できていなかった。そのような弟子達がどこでどのようにして生まれ変わり、イエスを救い主として理解し、伝道に命を捧げるようになったのか、このいわばコペルニクス的転回が新約聖書の肝ではないだろうか。イエスが十字架の上で死を遂げた後、弟子達は「罪人が掛けられる十字架の上で無力に死んだ男のことを信じるなんて頭がどうかしているんじゃないか」と人々から散々に馬鹿にされたのではないかと思う。それは現在でもそうなのかもしれない。そこから伝道がどのように激しい迫害の中、広がっていったのか、パウロ書簡、ヨハネの福音書をそのような視点も加えて読んでいきたい。