旅館篇 第7話
(三日目)
雨の音で東條様の奥様は目をさました。庭の木の葉を雨がやさしく叩いている音が聞こえてくる。「今日は一日雨かしら。2日間ちょっと忙しかったから、今日は旅館でゆっくりするというのもいいわね」奥様はこの2日間のことを振りかえっていた。まるで家族のように迎えてくれている女将さんと旅館の従業員の人たち、ケア・アテンダントの坂本さん、親切にしてくださった地元の方たちともあと1日でお別れ、何か胸にこみあげてくるものを感じる。
「起きているのか」ご主人が頭を奥様の方に向けた。「はい、今目を覚ましたところ」
「朝食前に近くを散歩しないか」「雨が降ってますよ」「いいじゃないか、相合傘で行こうよ」旅館の案内図の中に散策路が紹介されていた。
東條様ご夫妻は着替えて「ちょっとそこら辺を散歩してきます。小1時間というところかな。朝食は8時にお願いします」奥様はご主人の腕にすがり、ご主人が傘をさしている。「行ってらっしゃいませ」
「若い頃、こうして2人で腕を組んで銀座を歩いたわね。デートだっていうのにあなたは
いつも遅れてきたし、それに仕事の話ばかりしてたわ」
「何を話したらいいのか、分からなかったんだ」
「愛しているよ、なんて一回も言ってくださらなかったのよ」
「そんなこと思っていても、口に出せなかったよ」
「ほんとに思っていたのかしら」
「思っていたさ」
「私のこと、そんなに好きじゃないのかしら、って寂しかった。母に明彦さんはデートの
時いつも仕事の話ばっかり、いやになっちゃうわ、と言ったら叱られたわ。母は「真面目で不器用な人かもしれないけど、一途なところがあるのよ、明彦さんは。これからはあなた次第よ」って言われたわ。」
「あれから45年か。長いといえば長いし、昨日のことでもあるような気もするし。長いこと本当にありがとう。でもぼくは君にとって良い夫ではなかったんじゃないかな。それほど出世もしなかったし、金持ちにもなれなかった。自分のことで精一杯という生き方をしてしまった。」
「あなたの定年退職の日、家に沢山のお花が届いたわね。その時、あなたが会社でどんな存在だったか、分かったの。嬉しかった。あなたの人間性を多くの人たちが認めてくれていたんだと」
「そんなことがあったね。でも君がお父さん、お疲れ様でした、と渡してくれた花束が一番嬉しかったよ」
「あの晩、お父さんはわたしの前に正座して、本当に長い間ありがとう、と言ってくれたわ。こんな私を支えてくれたことを感謝しています、って」
「あれから2人であちこち旅行に行ったね。会社勤めの時はどこにも連れていってあげられなかったからね。どこが一番想い出に残っている?」
「今度の旅行かしらね」