植田正治生誕100年写真展

 

植田正治氏の写真に初めて接したのは鷲田清一氏の著書『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』(1999年初刷)の中の写真だった。とても不思議な感じの写真で、一見平凡な光景のように見えるが、実際はそうではない、重大なストーリーが隠されているのではないかと見る者に思わせる仕掛けが施されている。私にとってシリーズ「砂丘モード」の黒子2人が、離れて立っている一組の男女に蝙蝠傘を差し掛けている写真が印象的だった。なぞめいた構成だ。そんな記憶を思い出させる美術評が、東京新聞の今日の夕刊に載っていた。と同時に古谷利裕氏の「二重性」の指摘でなぞが少し解けたような気がした。植田正治生誕100年写真展が東京ステーションギャラリーで1月5日迄開催されているとのこと。私は絵を見るのも好きだが、写真を見るのも好きだ。秋は美術の秋。仕事で忙しいなどと野暮なことは言わないで、時間をつくって写真も絵も見に行こう。「印象派を超えて」展も六本木の国立新美術館で開催されている。ゴッホの「種まく人」にも会えるだろう。余計なことかもしれないが、ミレーの「種まく人」もそうだが、種まく人はその姿から判断すると農作業の用語で言えば「種のばらまき」をしているようだ。もし麦などの穀物の種を播いているとすると、後の収穫作業が大変なのではないか。「種まく人」は何かの隠喩ではないか。私の解釈はゴッホの場合はルカの福音書8章11節~15節の神のみことばが良い地に播かれる様子、ミレーの種まく人は詩篇126篇5節の「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」ではないかというものだが、さてどうだろうか。