私は青空
鎌倉一法庵住職の山下良道師がNHKEテレのこころの時代に出ていた。師は30年の求道の結果、青空に辿りついた。師言う。青空。それが私です。私の本質です。私たちのいろいろな思いは、雲のようなものでしかありません。どれほど誰かへの怒りや憎しみにとらわれ、苦しんでいるとしても、その怒りも憎しみも、みな青空に浮かぶ黒雲でしかないのです」。師は私は青空のようなものです、ではなく私イコール青空と言い切っているところに、私は師の確信の強さを感じる。伊豆半島の南端に住み、農作業をしている牧師が「私は小松菜のように人に繰り返し役に立つものになりたい」と言っているが、これは自分の目標存在として小松菜をあげているのであり、私イコール小松菜ではない。私は青空としての私の発見の経緯をテレビで見ていたが、正直分かるような気もするし、一方で青空というのは大気の水分が太陽の光でつくりだすもので、完全に物質的なもののような気もする。それが私、というのはどういうことだろうか、という疑問も感じる。ということで、一昨日師の新書版「青空としてのわたし」を買って、読み始めている。読了する時には、この疑問は消えているだろうか。また師は仏教にはアップデートが必要であり、それを仏教3・0と表現している。この本を読みながら桂銀淑のヒット曲「すずめの涙」の歌詞の一節「私だけ飛べる青空を持っている人ならば」を思い出した。どこか通じるところがあるような気がする。ところで私は自分の本質を山下師のように「○○。それが私です。私の本質です」と言い切れるものがない。ここ暫くは青空を見ながら思索の日々が続きそうだ。